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第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任。1972年には、殖産住宅事件では株取得で証人喚問される。翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互社長東郷民安は旧制静岡高校時代からの友人であった。このため、親友も見殺しにすると囁かれた。
1972年のいわゆる三角大福戦争の際には野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていた事等から田中支持に回った。しかしながらこの言動が角栄の買収等と後に週刊誌に憶測を呼ぶ事になった。
第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。
1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。刑務所の塀には登るがそこから落ちないと揶揄された。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、大平内閣では反主流派に位置したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があった。大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。
鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。中曾根自身は蔵相ポストを要求したが、よりによって派の後輩の渡辺美智雄にその座を攫われるという屈辱を味わうが、腐らず職務に励み首相就任後分割民営化等の答申をする事になる土光敏夫の信頼も得る事になった。