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5.干支による紀年
5.3.干支紀年法
後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰をおこなわず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された<ref>この改暦は、中国における官暦の最初とされる。</ref>。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録されることはなくなった。ここに、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年毎に機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになったのであり、絶えることなく現在までつづいている。
これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。例えば、日本の甲子園球場は、完成した1924年(大正13年)が甲子の年に当たる事からの命名である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
(出典:Wikipedia)
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