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※日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。
1951年(昭和26年)の知事選では民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。
1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。
田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。
昭和40年までに県内の中央本線が複線・電化され、昭和57年(1982年)には中央自動車道が全線開通。また石和温泉や富士五湖、清里などの観光地が整備され、東京都区部からの日帰り観光地としても発展した。
バブル景気が崩壊すると県内の景気も一気に低下。甲府中心地の地価が15年連続下落し、また清里などのリゾート地も衰退する。一方で郊外のベッドタウンではイトーヨーカドーやアピタといったショッピングセンターが次々と開業し、甲府西武やダイエー湯村SCが撤退し停滞する甲府中心街を尻目に発展を遂げている。
望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。
天野知事の後、2003年(平成15年)からは前甲府市長山本栄彦が知事に就任。バブル崩壊後手付かずだった甲府駅北口の整備や中部横断自動車道の増穂IC以南の着工を推進。しかし県政の混乱が発生し、2007年(平成19年)の選挙で横内正明に敗れ、山本県政は1期で終焉した。