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2.明治維新の太政官
2.2.明治維新政府の官制
政体書
1868年6月11日(慶応4年旧閏4月21日)、副島種臣・福岡孝弟の起草による、基本法ともいえる政体書(慶応4年太政官達第331号)が、太政官の名で布告された。政体書は、新政府の政体を「五箇条の御誓文」に基づくものとし、権力分立・官吏公選・府藩県三治制などについて規定している。この政体書に基づいて6月17日(旧閏4月27日)新しい体制が発足した。国家権力全体を支配する組織を太政官と称して、同時に内部では権力分立を行って専制権力の発生を阻止しながら、諸大名や国民を強力に支配していく体制を組織しようとしたのである。
- 政体(慶応4年太政官達第331号)
- (略)
- 一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法司法行政ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ
- 一 立法官ハ行政官ヲ兼ヌルヲ得ス行政官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之
- (略)
三職のうち総裁が廃止されて(当時、有栖川宮熾仁親王は、江戸に滞在中)、副総裁2人が輔相と称して事実上の政府首班に就いた。立法権を司る議政官は、議定・参与からなる上局と諸藩の代表(貢士)からなる下局から構成された。行政権を司るのは、行政・神祇・会計・軍務・外国の各官(官庁)からなる五官であり、特に行政官は輔相を長として他の4官を監督する役割も担った。三権を担う官のうち司法権を扱う司法官は、実際には4官同様、行政官の監督を受けていたため、司法権の独立は形骸化した。さらに、輔相は議定の資格で議政官(上局)の構成メンバーでもあったため、権力分立は形ばかりとなっていた。
戊辰戦争終了後の1869年(明治2年)に入ると、版籍奉還が実施されて、諸藩は政府の地方機関として位置づけられた。そこで、会計官から地方行政を扱う民部官が独立した。続いて政体書に基づく「官吏公選」が行われて守旧派の公家や諸侯は事実上排除される形となった。また、監察機関として弾正台が設置された。
(出典:Wikipedia)
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