ランキングモンスター

八代市-歴史について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
3.歴史

肥後国誌には「八代」の地名の由来は社(やしろ)で、天照皇太神の山陵が上古にこの地に在ったので「やしろ」と言われるようになったと記されている。

6世紀には百済に使え二位達率と極めて高い官位を与えられた後に、朝廷に招かれた日羅大師の父阿利斯登を輩出した。

古来より八代は博多坊津と並ぶ九州の対外貿易港であったらしく、日本にみかんが中国より伝来した地であるとされる。平安時代末期には日宋貿易を重視した平清盛の所領であり、鎌倉時代になると執権北条氏の所領となった。室町時代初めの1334年建武の新政時の功績により伯耆国で海運業を営んでいた名和長年の子、名和義高が八代荘地頭職を賜り、古麓城と城下町を築いた。名和氏は、隣の球磨郡の領主・相良氏と室町時代を通じてたびたび争ったが、1504年、相良氏が名和氏を追い八代に進出。相良氏は本拠を古麓に移し、徳渕津が中国との貿易港として大いに栄えた。しかし、1582年には相良氏は南の薩摩大隅から勢力を伸ばしてきた島津氏に服属し、八代から退いた。

その後の1587年には島津氏も豊臣秀吉の天下統一の過程で行われた九州征伐で八代を追われた。当時の八代の人口は五万を数え肥後国の中で最も栄えていると記録されており、秀吉は古麓城と徳渕津を豊臣家の直轄領とした。そこで新たに肥後国南部の領主となった小西行長は、八代支配の拠点として1588年に 麦島城を築いた。関ヶ原の戦いの後、熊本城主・加藤清正が肥後一国の領主となり、1612年、城代として加藤正方が麦島城に入った。

1615年に一国一城令が出されたが、麦島城は一国一城令の例外として残り、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制となった

1619年、麦島城は大地震によって崩壊したが、幕府の許可により松江城(八代城)が新たに築かれた。築城当時は、南北811メートル、東西1477メートルの大規模な城で、現在は本丸の石垣と堀が残っている。幕府が一国一城令の例外として築城を認めたのは、島津氏に対する備えのためといわれる。

1632年、加藤氏の改易により、細川忠利が肥後の領主となると、その父・細川忠興(三斎)が隠居所として松江城に入城。1645年に三斎が亡くなると、筆頭家老の松井興長が入城した。以後幕末まで松井家3万石の城下町として栄えた。

1688年に城主松井直之が築いた御茶屋「松浜軒(しょうひんけん)」が今に残り、国指定名勝史跡となっている。ハナショウブなど四季折々の花が美しい庭園を備え、園内の松井文庫の資料館には松井家の家宝が展示されている。

1821年には、江戸時代の肥後国最大の干拓事業である七百町新地(鏡町)の干拓が行われ、米2,400石、塩1,600石の増収となった。

(出典:Wikipedia)

ランキングモンスタートップ八代市>歴史

八代市を検索
八代市のブログを検索
八代市の動画を検索
八代市の画像を検索
八代市の書籍を検索
八代市の音楽を検索
八代市のDVDを検索
人気の音楽・映画・コミックのランキングランキング★モンスターでチェック!