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ハイチ-賠償金の圧迫と国内の混乱について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
2.歴史
2.4.賠償金の圧迫と国内の混乱

この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテン・アメリカ最初の独立国が誕生し、中南米の他の植民地の黒人たちや独立主義者たちを刺激した。しかし南北の共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革プランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。一方、北部の共和国ではクリストフが王政を宣言。圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)を建設させるなどの波乱があったが、1820年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを再統一した。1821年、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国の独立を宣言し、コロンビア共和国への編入を求めて内戦に陥ると、ハイチは軍を進めてこれを併合し、以後1844年まで全島に独裁体制を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。ハイチの独立後、独立を承認する国家は存在せず、シモン・ボリーバルが全イスパノアメリカ諸国の連合と同盟を企図して1826年に開催したパナマ会議ではハイチの承認が議題として取り上げられたが、パナマ会議が大失敗に終わったため、大コロンビアとイスパノアメリカ諸国によるハイチの承認はなされなかった<ref>加茂雄三:編『世界の歴史23 ラテンアメリカの独立』講談社 1978/09 pp.134-137</ref>。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じた。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。

1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年にフランスへの賠償金のための重税に苦しんでいた東部のスペイン系住民が、再度ドミニカ共和国としての独立を宣言し、これに敗北して東部を手放すなど、内政混乱が続いた。この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍フォースタン=エリ・スールークであり、大統領に就任したが後に帝政を宣言し、ファーブル・ジェフラール将軍の蜂起で打倒される1859年まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。

(出典:Wikipedia)

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