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から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。
ヒトラーは1923年にインフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。シャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるクルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。
一方でヒトラーはドイツ再軍備のために300億マルクの支出を要求した。シャハトは金属調査会社(Metallurgische Forschungsgesellschaft)というダミー会社を作り、この会社に)の発行でインフレを伴わない資金調達が可能となったが、政府に見えない負債を膨大に抱えさせる結果となった。
一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言する。
外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。
このためドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。1944年には軍事費は当時のヨーロッパでは最高で、ドイツ経済のほとんどを占めた。1945年に戦争経済は敗戦と同時に崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。