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1.概説
1.1.「社会の木鐸」宣言
- ラジオ関東は開局以来『洋楽のラジ関』の通称で親しまれ、横浜らしさの漂う洒脱な雰囲気、また港町ならではの輸入レコード盤<ref>イベントでラジオ日本が出展するブースには決まって自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示される。</ref>による洋楽に関する情報の速さやオンエアー数から、団塊世代の若年層を中心に人気を博していた。
- その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていたが<ref>「社会の木鐸」宣言以前は、愛川欽也、榊原郁恵、三橋美智也らがDJの、平日夜10時からの「電撃ワイド・ウルトラ放送局」がかなり話題になるなど、若年層向けの番組では、他局にひけをとらない人気があった。演歌歌手の三橋は初DJでノリ良い意外な一面を見せ、「フィーバー・フィーバー」の掛け声がカップラーメン「激めん」(東洋水産)CMにも用いられて”ミッチーブーム”を起した。</ref>創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久社長(当時)は、巨人戦ホームゲーム独占中継権獲得(1977年)を笠に着て、ワンマン体制を強化していたが、1982年に「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共色の濃い論説や演歌を多く流す、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、職業運転手や一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になる。
- 神奈川の県域放送免許にもかかわらず、関東全域(特に東京都)で聴取できる実態があり、遠山時代には東京支社に社員の9割が配置されるなど、実質的な本社・演奏所として機能していた。1986年に横浜市土地開発公社が払い下げた横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が、「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮して、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画には放送設備もアンテナ塔も無い、単なるテナントビルである事が暴露され、慌てて放送設備等を備えた計画に変更されるなど、社会的非難を浴びる問題も生じた。しかし会長として従前権勢を揮っていた遠山は、大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る。この影響で『林原めぐみのHeartful Station』が開始間もない1991年7月に突如打ち切り(制作局をラジオ関西に移し、ラジオ日本以外で番組を続行)になった。
- 遠山は、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行したが、長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部連が諮って、1993年12月21日に取締役会全会一致で遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任し、ワンマン体制に終止符が打たれた。本人が遅刻するにも関わらず、取締役会は定時に開催すべしとの遠山からの連絡を受け、その間に緊急発議で実現した解任劇だった。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同様に、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、翌年2月には乱脈経営で会社に損害を与えた廉で遠山を告訴し、遠山の家屋敷を差し押さえて一族所有の同局株を日テレに譲渡させ、事実上日テレの傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た。
(出典:Wikipedia)
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