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軍歌-[[太平洋戦争]]期について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
2.日本の軍歌
2.1.日本の代表的な軍歌
[[太平洋戦争]]期

開戦とともに、さらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られた。開戦前とは打って変わり、明るく軽快もしくは勇壮な歌詞・曲のものがほとんどである。ただし、優秀な曲が多く生まれたと同時に、時局に合わせただけの粗製濫造の曲も非常に多く、その多くは歌い継がれることなく消滅していった。また、「勇壮でない」とにらまれた曲はたとえ軍歌でも弾圧を受け、明治以来の優秀な軍歌がいくつも歌詞改訂・歌唱禁止指定されるなど、暗い面も残している。

日々艦隊勤務に打ち込む海の男の手で日本軍艦が勇ましく太平洋を進む様を海軍中佐高橋俊策が作詞、海軍軍楽隊出身の江口源吾(江口夜詩)が作曲した。1940年11月に内田栄一の歌でポリドールレコードから発売され、流行歌として広く国民の間に親しまれた。若山彰伊藤久男の演奏もある。別名『艦隊勤務』(JASRACデータベースでは「月月火水木金金」が正式の題名、「艦隊勤務」は副題である)。
オランダ領東インド(現インドネシア)攻略時に行われた空挺作戦を記録した同名の映画の主題歌。日本の軍歌としては珍しくピョンコ節を離れアウフタクトを多用した軽快な旋律が、美しい歌詞と相まって現在でも人気が高い。作曲者の高木東六は軍歌に反発して「なるべく軍歌らしくない旋律をつけよう」として作曲したといわれており、戦後も軍歌であるこの曲を嫌っていた。しかしその後、陸上自衛隊空挺部隊がこの曲を流しながら降下訓練するのを見て感激し、認識を改めたという。
海軍飛行予科練習生募集のための映画「決戦の大空へ」の挿入歌として作られた。メロディーは2つの候補から練習生に直接選んでもらい、歌詞は作詞者が直接予科練を見学して作ったという。悲壮ながらも飛行兵への希望と意欲を湧かせ、大ヒットを記録した。今なお愛唱され続けており、前述の映画の作中にも登場した土浦第一高等学校では応援歌の一つだった事もある。
原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年1月号の少女倶楽部に発表された西條の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず大いに流行した。
「南洋航路」という歌謡曲が原曲である。
佐伯孝夫と灰田勝彦はビクターレコードの、古関裕而はコロムビアレコードの専属であったが、放送用の曲であったため制作が実現した。後、ビクターがコロムビアに対し信時潔の曲を提供するという条件で、昭和19年1月にビクターレコードより発売された。南方の前線航空基地を彷彿とさせる軽快な歌詞と曲で流行したが、実は流行した時期は、皮肉にもちょうどラバウルから海軍の航空部隊が撤退した時期であったりもする。
台湾沖航空戦に勝利を収めたと発表されたのを記念して作られた。当時の戦況を打開できるめどがついた明るい調子に仕上がっている。しかしこの曲は、ニッチク(日本コロムビア)が戦前実質的に販売した最後のレコードとなってしまった。
読売新聞社が軍の依頼を受けて西條と古関に依頼した。の項によれば、前述の「台湾沖の凱歌」以降のレコード番号に16個ほどの連番での欠番があり、その中に「比島決戦の歌」が含まれていることを指摘している(レコード番号は「台湾沖の凱歌」:100920、「比島決戦の歌」:100930)。ニッチクはその昭和20年3月頃までレコード生産を行っていたが、プレス製造機械供出で以降のレコード生産は実質停止している。
「敗戦と共に楽譜は全て廃棄された」(楽譜に関しては古関裕而記念館に展示されている他、「昭和二万日の全記録⑥太平洋戦争」(講談社)のグラビアページに楽譜とレーベル原稿の写真が掲載されていることから、少なくとも完全な「廃棄」は誤りと言える)、「西條と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。尚、本作は古関の死後、戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。
(出典:Wikipedia)

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