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大阪市立五条小学校・大阪市立天王寺中学校・追手門学院高等学部卒業後、医師を目指して何度も医大受験をするも失敗し、2浪の末入った明治大学文学部演劇学科を卒業。大学在学中から日本テレビ報道局でアルバイトを続け(一時は朝日放送東京支社でのアルバイトも掛け持ちしていた)、1966年に日テレ(一部の記事を除き以下、日テレと略す)へ入社。報道記者を経て1970年にアナウンス部へ異動。1971年からスタートした『まんがジョッキー』の出演者として知名度を得る。しかし、「このまま子供向けのキャラクターになってしまうのではないか」と危惧を抱き、降板を申し出たところ、会社命令に背いたという名目で、表舞台での仕事を一切剥奪されるというペナルティーを課される。
ペナルティーが解かれてからもレギュラー番組を任せられることはなく、単発スペシャル番組のナレーション程度しか出番がない状態が続いた。しかし1977年、『アメリカ横断ウルトラクイズ』の企画が社内で持ち上がる。この収録の日程上、長期にわたって海外出張できる余裕のあるアナウンサーが必要になり、レギュラーを持っていない福留にお鉢が回ってきた。事実上「干された」状態だったことが、逆に飛躍へのチャンスを生んだことになった。また後に、高校生から「ウルトラクイズに参加したい」という手紙を多くもらい、その手紙に応えて福留が企画・誕生させた番組が、現在も続く『全国高等学校クイズ選手権』である。
『ウルトラクイズ』が人気番組に成長するとともに、福留の知名度もさらに上昇。徳光和夫の後を継いで1988年より『ズームイン!!朝!』総合司会者にも就任。自らが災害・事故・事件現場に積極的に赴き、また、全国の系列各局との密接な連携などを行い、高い評価を得ていた。
1991年、日テレを退社、クレージーフォーを設立(同事務所は2004年6月30日に解散)。
徳光が「トメはアナデューサーだ」と評しているように、アナウンサー時代から番組制作に対しては、出演者ながら積極的に参画している。“スタッフ・共演者泣かせ”とまで評される妥協を許さない意欲が、担当番組の良質さを生み出しているといえる(『ズームイン!!朝!』『いつみても波瀾万丈』『ブロードキャスター』は、いずれも福留途中参加ながら長寿番組へと導いている)。
2008年秋まで3本のレギュラー番組に出演していたが、視聴率の低下や福留の高額なギャラがネックとなり、秋の番組改編で3本全て打ち切りとなった。中でも『ブロードキャスター』『いつみても波瀾万丈』といった福留の代表的長寿番組の打ち切りは彼にとって大きな痛手となった。その後、TBS系で10月から新番組『復活の日』がスタートしたが、こちらも強力な裏番組を相手に視聴率が伸び悩み、半年間持たず4月の番組改編以前に打ち切られた。
現在、福留のレギュラー番組はなく、『サンデージャポン』に準レギュラーとしてたまに出演するのみである。2009年3月3日『ズームイン!!SUPER』30周年記念にゲスト出演した際は、日テレの後輩の羽鳥慎一に対して「君フリーにならなくて良かったねぇ」とやや自虐的な発言をしていた。ただし現在定期的に放送されている『間寛平アースマラソン特番』について福留自身「これが最後の仕事」と語っているように、自ら引き際を考えて仕事をセーブしている可能性もある。