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3.歴史
3.4.近世

現在の岡山の地は「岡山」・「石山」・「天神山(天満山)」と呼ばれていた3つの小高い丘のある備前国西部の農村地帯の一角に過ぎなかったが、岡山の地の利に目を付けた宇喜多直家は「石山」に小規模な城を築いていた金光氏を謀略により断絶させ、代わって岡山の地に入封した。 直家の息子・宇喜多秀家は備前・備中・美作3国守護の座に就き、豊臣秀吉の許しを得て「岡山」に築城し、商人を備前福岡から呼び寄せるなど、城下町が形成されていった。その後、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、豊臣家五大老の一つの地位を占めていた宇喜多氏は所領没収のうえに八丈島に流された。

戦勝側である小早川秀秋が3国51万石を領有したが2年で後嗣なく死去、断絶となり、1603年(慶長8年)、西国将軍と称された姫路藩藩主・池田輝政の次男、池田忠継が分家として備前38万石に入った。忠継・忠雄のあとに池田本家の鳥取藩から領地の交換で岡山に31万5千石で入封した池田光政(輝政の孫)が備前岡山藩の基礎を築き、以後、明治維新を迎えるまで光政の家系が藩政を担った。また、領内には池田家の家老の陣屋が各地に所在し、伊木家3万3千石の虫明陣屋を筆頭に、池田家3万2千石の天城陣屋、池田家2万2千石の周匝(すさい)陣屋、日置(へき)家1万6千石の金川陣屋、池田家1万4千石の建部陣屋、土倉家1万1千石の佐伯陣屋があった。城下町・岡山は発展を続け、第4代池田綱政の治世の1707年(宝永4年)には町方人口が3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万~5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。現在では日本三名園の一つに数えられる後楽園が造成されたのもこの時期である。19世紀に入り岡山藩の財政状況が悪化すると藩は被差別部落への差別を強化した。その結果、1856年(安政3年)に備前一国を巻き込む渋染一揆が発生した。

備中には小早川氏改易のあと、一国を管轄する藩が置かれず幕領と大名領・旗本領が錯綜した。備中松山藩を筆頭に、足守藩庭瀬藩新見藩岡田藩浅尾藩・岡山藩の支藩である岡山新田藩(鴨方藩)および岡山新田藩(生坂藩)が成立した。 また、交代寄合の山崎家の成羽陣屋(幕末成羽藩となる)、交代寄合の戸川家撫川陣屋が置かれ、戸川家は旗本としても早島・帯江・妹尾・中庄にそれぞれ陣屋を構えた。倉敷は天領(幕府の直轄)となり、備中のみならず伊予讃岐など周辺諸国の幕領を管轄統治する幕府陣屋が置かれ、その繁栄は岡山以上とも言われた。

美作には森家が18万6千石で入封。4代で断絶の後、越前松平家の宗家筋の津山藩10万石、三浦家の勝山藩2万3千石が成立した。

幕末期になり薩摩藩長州藩による倒幕の動きが広がると、外様であった岡山藩は勤皇派に、親藩譜代であった津山藩・備中松山藩は佐幕派に分かれ、1868年明治元年)に勃発した戊辰戦争の際には当時の藩主である板倉勝静が老中職にあった備中松山藩を朝敵として岡山藩などが攻撃を加えた。

(出典:Wikipedia)

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