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大正デモクラシー退潮後の日本では、軍部の影響力が増大し軍国化した。日本軍の間では、軍人は自決によって責任をとることを是とし、またそれは美徳だと考えられており、「生きて虜囚の辱めを受けず」の一文で有名な戦陣訓に象徴される、捕虜になることより潔い自決を名誉とする環境が醸成されていた。
1941年に開戦した太平洋戦争では、終戦まで組織的降伏は際立って行われず、殆どの軍人が自決を選んだ。また前線の指揮官が無断撤退の責任を取るために自決を選ぶ、もしくは強いられることもあった。自決であれば、軍人軍属の場合は戦死扱いになり、不名誉でないとされた。またそれに呼応する様に、これらの思想は一般市民にも浸透しており、所謂名誉の自決をした軍人は新聞報道やラジオ放送、ニュース映画や大本営発表を通し市民の目や耳に入り、立派な最期を遂げた尊敬すべき偉人とされ賞賛された。
また、陸海軍を問わず日本軍の航空部隊は、操縦者や機体が被弾し、どうしても帰還が不可能となった場合は「敵機・敵施設・敵地上軍・敵艦に突入し自爆」「背面宙返りで地上や海上に自爆」が常態であった。前者としては、真珠湾攻撃時に被弾した海軍の戦闘機操縦者(飯田房太海軍中佐)が米軍格納庫に突入しており、後者としてはビルマ航空戦のベンガル湾上空において、爆撃機迎撃時に被弾し海上に自爆し、戦死後は生前の功績も含め、軍神として崇められた加藤建夫陸軍少将が有名な事例として挙げられる(両人とも被弾後に不時着ないし落下傘にて脱出する事は可能だった)。<ref>しかし、あくまでこれらは遠隔地や敵地上空に於いてのやむを得ない場合であり、内地での日本本土防空戦時は勿論、外地でも自軍占領地に近い場所での墜落時は、何とか帰還するようにと推奨されていた。未帰還時には僚機の報告を元に捜索隊が派遣されたり、操縦者が原住民とコンタクトを取り、飛行場まで案内を頼むといった事は決して珍しい事ではなかった。</ref>
日本の戦線が後退する1943年以降は、撤退できないで孤立した部隊が自らの戦いを終わらせるため、しばしば「バンザイ突撃」(万歳と叫びながら突撃することから米兵が名付けた)のような決死的な肉弾攻撃を実行した。神風特別攻撃隊や対戦車肉弾攻撃のように作戦そのものが未帰還や自爆を前提としていたものもあり、これらを米軍は「自殺攻撃(Suicide Attack)」と名付けた。また、激戦地となった沖縄県や、満洲などの外地では、軍人のみならず多くの市民が集団自決に追い込まれており、その数は現在でも不明である。
敗戦時や大戦最末期には、軍の上層部の人間から、この責任を取るため自決を選んだ人間が多く出た。有名な「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書を残し介錯無しで割腹自決した陸軍大臣阿南惟幾陸軍大将や、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電し拳銃自決した大田実海軍中将らが後世に名を残す一方、本来なら責任(自決)を取るべきところ、自決せずに自分だけ生きながらえた花谷正や牟田口廉也、福留繁などが部下や世間からの批判にさらされた。戦陣訓の制定者である東條英機は自決に失敗し、世論の嘲笑を浴びた。また、安達二十三陸軍中将や今村均陸軍大将の様に、戦後連合軍により戦犯に指定され収容所にて服役中に自決、自決未遂した者も多い。その他、太平洋戦争開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎は「ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為」自決を見合わせている。