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16世紀以来チリはスペインの植民地であったが、ナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱と、そこから派生した半島戦争により、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世に据えるとインディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。ラパスやキト、サンタフェ・デ・ボゴタといった各地でクリオージョの間に独立運動の気運が高まる中、チリでも1810年にブエノスアイレスで勃発した五月革命の影響により、同年9月18日にフアン・マルティネス・ロサスがサンティアゴ・デ・チレに自治政府を創設し、国民議会を招集して奴隷の輸入禁止、奴隷の子の自由を保障する決議などを行った。
1813年にホセ・ミゲル・カレーラの指導する自治政府はペルー副王アバスカルの派遣した王党軍によって崩壊し、再びスペインの支配を受けるが、独立指導者 ベルナルド・オイギンスはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(アルゼンチン)に亡命し、解放者ホセ・デ・サン=マルティンの率いるアンデス軍と共に1817年のチャカブコの戦いに勝利し、再びチリに入った。サン=マルティンはチリ議会からチリ総督になることを要請されたが、これを拒否したため、1818年にオイギンスがチリの独立を宣言し、初代大統領となった。同年中にチリ=ラ・プラタ連合軍がマイプーの戦いでスペイン軍を破ると、チリのスペインから独立が確定した。その後サン=マルティンはペルーに向かい、シモン・ボリーバルと共にペルーを解放することになる。
1818年から1823年までオイギンスは自由主義的改革を進めるが、まもなく保守主義者と自由主義者の対立が繰り広げられた。しかし、同時期のラテンアメリカの多くの国でなったような自由党と保守党の果てしない内戦には至らず、1830年のリルカイの戦いで保守派が勝利すると、保守派の指導者だったディエゴ・ポルターレスは1833年憲法を制定した。この憲法では大統領権と中央集権的要素が強く、地方自治と議会の自立性は損なわれたものの、強力な保守支配を実現し、パラグアイと共にチリは安定した体制を築いた。以降強力な保守支配による政治的安定を実現した「ポルターレス体制」時代にチリは国力を蓄えることになったが、既にこの時期には他のラテンアメリカ諸国と同様にイギリスによる経済進出が進み、チリ経済もイギリスへの従属が始まった。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領がペルーを併合し、ペルー・ボリビア連合の建国を宣言すると、北方の大国の出現に脅威を感じたチリ政府は、亡命ペルー人や、アルゼンチンの指導者フアン・マヌエル・デ・ロサスと共にこの連合を攻撃し、1839年には連合を崩壊に追い込んだ(連合戦争)。
1851年に保守党からマヌエル・モントが大統領に就任すると、電信、鉄道などが整備され、折からの銅の生産増や、政治的安定も相まってチリは急速に成長する。また、この時期にヨーロッパ、特にドイツからのまとまった数の移民が導入された。1849年に自由党が結成されたことをきっかけに1860年代に入ると1861年から1891年まで自由主義者が政権を握り、外交面では1865年からのスペインによる南米再侵略を打ち破り、また、独立以来混乱を続けていたボリビアのマリアーノ・メルガレホ大統領から、ボリビア沿岸部の硝石鉱山の権利を購入した。
そして、1860年のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによるアラウカニア・パタゴニア王国の建国をきっかけに、1862年からアラウカニア制圧作戦が進み、19世紀の間に南部のマプーチェ人の居住地とパタゴニアが国家に組み入れられた。