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1492年にクリストバル・コロンによってアメリカ大陸が「発見」されると、チリにもヨーロッパ人の到来が始まった。最初に現在のチリとなっている領域を訪れたヨーロッパ人は、ポルトガル人の探検家、フェルナン・デ・マガリャンイスだった。彼は1520年に、チリとアルゼンチンの最南部のマゼラン海峡を「発見」した。
1532年にインカ帝国の皇帝アタワルパがスペイン人の征服者、フランシスコ・ピサロらによって処刑され、事実上崩壊すると、1535年にディエゴ・デ・アルマグロがペルー方面からチリに遠征した。アルマグロの遠征は失敗したが、続いて1539年にはペドロ・デ・バルディビアがピサロの命により侵攻した。バルディビアはかつてインカ帝国が支配していた地域の征服にはさしたる苦労もなしに成功し、1541年に中央部に辿りつき、首邑となるサンティアゴ・デ・チレを建設して植民地化を進めたが、南部の植民地化には苦戦した。スペイン人の戦術を採用したマプーチェ人のトキ(首長)ラウタロは激しく抵抗し、征服者は敗れ、バルディビア自身も1552年に戦死した。
その後、スペイン人は南部植民地化を進めようと兵を送るが、ラウタロの死後もカウポリカンやコロ・コロといったマプーチェ人の戦士達の激しい抵抗によりアラウコ戦争が継続され、以降チリ植民地は300年間に渡ってビオビオ川を境界線にしてスペイン人とマプーチェ人の断続的な戦争状態が続くこととなった。1541年に創設されたチリ総督領はペルー副王領に組み込まれ、1565年にコンセプシオンにアウディエンシアが設立された。
このように植民地時代のチリでは海賊の襲撃や、マプーチェ人との断続的な戦いが続いた。山脈や砂漠により、周辺地域から遮られた孤島のような地形のチリ総督領の主産業はペルー向けの小麦の生産などとなった。これはチリの入植者に農業を厭わない堅実な気質を育み、チリは徐々に独自の経済圏としてのアイデンティティを確立していくことになった。
1776年にボルボン改革によってペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離されると、理論上ではチリ総督領が領有していたとされた、現在アルゼンチン領となっている部分も含めてのパタゴニア全土がラ・プラタ副王領の管轄下に入り、チリの国土が現在の「刀の鞘」のように細長くなった。