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1.沿革
津軽氏は、元は大浦氏を称した。大浦氏は大光寺氏などと同様に南部氏の支族であったが、戦国時代末、初代藩主となる為信が南部氏内部に起こった争いを機に周辺の豪族を滅ぼして勢力を広げた。為信は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して大名の地位を公認され、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が江戸時代を通じて津軽地方一帯を治めた。
弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5000石と関ヶ原参陣の功によって加増された上野国勢多郡大舘領(現群馬県太田市尾島地区など)2000石の計4万7000石。元禄2年(1689年)に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1000石を召し上げられて4万6000石となる。この際領内に生じた飛び地の天領を解消するため、元禄11年(1698年)に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現福島県伊達郡川俣町内)を取得した。その後、9代寧親の代の文化年間に高直しがあり文化5年(1808年)に10万石となった。これに伴い従四位下昇進と大広間詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった盛岡藩主南部利用より寧親が上座となり、これに対する屈辱から南部藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した相馬大作事件が引き起こされた。
(出典:Wikipedia)