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ヨシフ・スターリン-大粛清について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
8.大粛清

1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった<ref name="Nomenklatura">ミハイル・ヴォスレンスキー著『ノーメンクラツーラ』</ref>。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する<ref name="Nomenklatura" />。キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする<ref name="Nomenklatura" />。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった<ref></ref>。

1934年)という青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている<ref>『スターリン秘録』より。</ref>。スターリンとキーロフは非常に親しく、その死はボリシェヴィキをぞっとさせた。キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探しだすことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのである。この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。

キーロフが暗殺されると、スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを、殺人に巻き込むための詳細な策謀を考案した<ref name="brackman205"></ref>。調査と裁判は拡大していった<ref name="brackman207"></ref>。スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した<ref></ref>。その後、には、NKVDのもとに置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった<ref></ref>。

共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した<ref name="Figes"> による公開裁判後に強制収容所のグラグへの収容と処刑という、より厳しい措置が取られた<ref name="Figes" /><ref>Ian Kershaw, Moshe Lewin, Stalinism and Nazism: Dictatorships in Comparison, Cambridge University Press 1997, ISBN 0521565219, page 300</ref><ref>Leo Kuper, Genocide: Its Political Use in the Twentieth Century, Yale University Press 1982, ISBN 0300031203</ref>。

軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清につながっていく<ref name="scale">The scale of Stalin's purging of Red Army officers was exceptional—90% of all generals and 80% of all colonels were killed.This included three out of five Marshals, 13 out of 15 Army commanders, 57 of 85 Corps commanders, 110 of 195 divisional commanders and 220 of 406 brigade commanders as well as all commanders of military districts. (pg 195, Carell, P. (1964) Hitler's War on Russia: The Story of the German Defeat in the East. translated from German by Ewald Osers, B.I. Publications New Delhi, 1974 (first Indian edition).</ref>。これほど多くの上位の革命家と党員の弾圧は、スターリンの政治体制をレーニンのそれから切り離した「血の川」というトロツキーの主張につながった<ref>Tucker, Robert C., Stalinism: Essays in Historical Interpretation, , American Council of Learned Societies Planning Group on Comparative Communist Studies, Transaction Publishers, 1999, ISBN 0765804832, page 5</ref>。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している<ref>「ビジュアル世界史」(東京法令出版)129頁</ref>。

)は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外の様々な民族を標的とした。計350000人(その内の144000人がポーランド人)が逮捕され、247157人が処刑された<ref name="RedTsar" />。粛清と平行して、ソビエトの教科書とほかの宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。

ソビエトの公文書によって明らかになったことを踏まえて、公式のデータによれば1937年には353074人、, 24 December 2007. ISBN 0300123892 p. 2</ref>。

ただし、37年と翌38年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館(GARF)による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1118人)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明とは異なる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料にもとづく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている<ref>『ソ連秘密資料集 大粛清への道』618頁</ref>。

主な犠牲者としては、かつてスターリンとともにトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフカール・ラデックミハイル・トゥハチェフスキースタニスラフ・コシオールレフ・カラハンイオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェミハイル・トムスキー自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。

俳優演出家フセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党クン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、留学中の医師・国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されていたことが判明している)。

また、後述のようにこのページに掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している<ref>King, pp.44-45</ref>。

粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている<ref>1938年12月8日に内務委員の職を罷免されてベリヤに取って代わられ、翌1939年4月10日に逮捕され、1940年2月4日に銃殺刑となった。</ref>。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤとともに粛清されている。

粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命を辿ることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された<ref>King, pp.156-157</ref>。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々のもとには「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。

「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年におこなった秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。

1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現ロシア政府が公式に認めた、とされるが根拠は不明。

<gallery> ファイル:Genrikh Yagoda.jpeg|大粛清初期のNKVD長官ゲンリフ・ヤゴーダ ファイル:Ежов Николай Иванович 1895-1939.jpg|大粛清最盛期に君臨したNKVD長官ニコライ・エジョフ ファイル:Lavrenty Beria.jpg|大粛清末期のNKVD長官ラヴレンチー・ベリヤ image:Davidovo Victims of Great Purge 1930-50 Memorial 8288.jpg|大粛清の犠牲者を弔う墓碑 Image:Tukhachevsky-mikhail-2.jpg|大粛清で処刑された赤軍のミハイル・トゥハチェフスキー Image:Yakir 462.jpg|大粛清で処刑されたイオナ・ヤキール </gallery>

(出典:Wikipedia)

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