尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣 茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判された。