ランキングモンスター

吉田茂-内閣総辞職後について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.生涯
1.4.内閣総辞職後

1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。

1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。またこの年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。1965年(昭和40年)米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。

1967年(昭和42年)10月20日正午頃、死去。享年89。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという<ref>『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)</ref>。 前日に「富士山が見たい」と病床でつぶやき、三女の和子に起こしてもらって快晴の富士を眺めたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である<ref>『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁</ref>。 葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後唯一の国葬日本武道館で行われ<ref>吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。</ref>、官庁や学校は半休<ref>『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面</ref>、テレビ各局は特別追悼番組を放送して故人を偲んだ<ref>特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。</ref>。 戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。

(出典:Wikipedia)

ランキングモンスタートップ吉田茂>内閣総辞職後

吉田茂を検索
吉田茂のブログを検索
吉田茂の動画を検索
吉田茂の画像を検索
吉田茂の書籍を検索
吉田茂の音楽を検索
吉田茂のDVDを検索
人気の音楽・映画・コミックのランキングランキング★モンスターでチェック!