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終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。首相に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱及び実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。このときGHQ民政局による山崎猛幹事長首班工作が失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し、戦後日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。1949年3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が1952年に設置・施行されるきっかけを作る<ref>春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』</ref>。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。
直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日米安全保障条約を結んだ。以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などがあった。造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。
1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である<ref>日本国憲法下において、下野した総理大臣が再任したただ1人の例である。内閣総理大臣在任期間は2616日。</ref>。