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吉田茂-外交官時代について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.生涯
1.2.外交官時代

戦前の吉田は、政治思想的には国際協調路線というよりも積極論者であり、中国進出へは軍部よりもときには積極的であった。奉天総領事時代には東方会議へ参加している。

ただし外交的には覇権国英米との関係を重視し、新興国ナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた<ref>ただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解をとっている。</ref>。 二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。 1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日後に仮釈放、後に不起訴とされた<ref>自著『回想十年』によれば、牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。</ref>。この戦時中の受難が、逆に戦後は幸いしGHQの信用を得ることになる。

(出典:Wikipedia)

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