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1.経歴・人物
滋賀県彦根市出身。滋賀県立彦根東高等学校卒業。日本交通公社に入社し、1年後に早稲田大学第二文学部(夜間学部)に入学し、仕事と学業を両立させるも1955年大学中退後、早稲田大学第一文学部史学科に再入学、1960年卒業。大学時代は小説家志望であったが、同世代の石原慎太郎、大江健三郎の出現にショックを受けて断念。
1960年に岩波映画製作所入社。カメラマン助手をつとめる。
1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。
東京12チャンネル編成部長を務めた後、1976年1月に退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、1987年「朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」にも出演している。
2002年4月より早稲田大学大隈塾塾頭、2003年6月よりドリームインキュベータの社外取締役を務めている。
2009年1月、「フォーラム神保町」主催による「田原総一朗ノンフィクション賞」の創設が発表された。
==東京12チャンネルからフリーへ==
- 東京12チャンネル時代には『噂の真相』でコラムを連載していた。当時編集長だった岡留安則によると原稿を取りに行っても田原本人が不在だったことが多く、代わりに当時同局で深夜番組を担当していたアナウンサーの小倉智昭が対応に当たっていたという。フリーになった後『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げていくことになる。
- 田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビの牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦、宝宮正章らの東京放送のドキュメンタリー番組、などが主流であった。当時、開局したばかりの「東京12チャンネル」は、インディーズ的存在であった。田原は、逆にそれを逆手にとって「過激な題材」を元に、「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとった。田原の著書『青春この狂気するもの』に、この「確信犯的」な手法が書かれており、その本を読んで衝撃をうけた、原一男に手法が引き継がれた。
- ディレクターを務めたドキュメンタリー番組では視聴者の興味を惹くため、事実を曲げてまで脚色を行なっていたようである。番組で採り上げられたジャズピアニスト・山下洋輔の著作『風雲ジャズ帖』所収のエッセイ「真相『今も時だ』」に詳細あり。
- また、田原の著書『私たちの愛』によると、上記の山下の件以外にも、以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していたという。
- ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。
- 役者・高橋英二がガンで半年の余命しかないと発覚。さらに右腕を切断しないとならないとなり、その手術の場面を撮影。また、本人の望むまま、国会議事堂に散弾銃を発砲するシーンも撮影。高橋はスターになるが、やはり死去。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるシーンまで撮影した。
- 全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。その余興として花嫁が列席者全員とセックスをすることとなる。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原はみずから彼女をセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映されたが<ref>当時の東京12チャンネルには「金曜スペシャル」のような過激な番組がゴールデンタイムに放送されていた。</ref>、レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の同棲相手)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。
- 以下は原一男との対談からのエピソード
- 「『わたしたちは……』~カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが実際は、彼女は母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。そして、日記の記述のとおり、「二人で裸でパンを食べさせ」、日記の結末にあるとおり「二人で海に行かせた」。当時天井桟敷のスターだったカルメン・マキに変な男がついたということで、寺山***司が怒り、寺山と支那虎は口論して支那虎は退団したが、そのシーンまで撮影した。なお、支那虎は、その後、田原の作品の助監督をつとめた。
- 役者「高橋英二」をとりあげた作品について。彼は、『七人の刑事』に何度か出演し、三島由紀夫の『黒蜥蜴』でもいい役をもらった、若手有望俳優だった。最初のシーンは国立がんセンターの病室だが、取材拒否されたため、内緒で撮影した。腕の切断手術シーンは田原は撮りたかったが、取材拒否されて撮影できなかった。手術直後に、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んで強姦しようとしたが、女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンも、そのまま撮影した。高橋は「余命半年」と言われたが、実際は1年半生きた。
- 「出発(その1)~少年院をでたMの場合」、少年院で撮影してくれる少年を探したがなかなかみつからず、ようやく見つけた少年を、スタッフの安田哲男が保証人になって退院させた。
- ATG映画にて、1971年、『あらかじめ失われた恋人たちよ』(桃井かおり・加納典明主演・彼らのデビュー作)の制作・監督を務める(劇作家の清水邦夫との共同監督)。同映画のADが、後に『ゆきゆきて、神軍』の監督となる原一男であったと、よく誤解されるが、実際は原は助監督を熱望したが、かなえられなかった。
- 上記の映画は、最初は、羽仁五郎の『都市の論理』を原作にして、ドキュメンタリー映画を撮ろうと企画していた。
- 加納典明が演じた役は、田原は当初は、日大全共闘の議長の秋田明大に演じさせる予定であったが断られた。そのため、スティール担当として企画に関わっていた加納を、苦肉の策で起用した。
- 桃井かおりが演じた役は、清水邦夫が「ニンフ的な少女がいい」ということで、当初は、結城アンナ(岩城滉一夫人)や、仁科亜季子が候補であった。だが、いずれにも断られ、チーフ助監督の尾中洋一が探してきた桃井かおりを候補にしたところ、彼女の母方の祖母が「有名な声楽家」だとわかり、「企画」担当の葛井欣士郎が尊敬していた人物だったことから、「あの先生の孫だ!」ということで、彼女に決定した。
- チーフ助監督だった尾中洋一(のち脚本家)に原一男がインタビューしたところ、劇映画初体験の田原は、「アップ撮り」「カット割り」「右目線、左目線」も分からなかった。「よーいスタート」も田原がかけられないので、尾中が担当した。そのまま、田原を無視して「2日目から実質、尾中が監督」で撮影を続けたところ、ある夜、田原が遠くに行き、闇で「ばかにするな-」と叫んだ。だが、撮影資金も乏しく、短期間で製作する必要があったため、そのまま田原を無視して撮影は続いた。
- また「羽昨の駅前で、売春婦と出会って抗議集会」というシーンがあるが、警察の撮影許可も取らず、出演しているのは大半は単なる通行人。これは「田原的ドキュメンタリー手法も少しは取り入れないと」と、尾中が気を遣ったという。なお、プロの役者である石橋蓮司や緑魔子は、「無能な監督・田原」に怒っていたという。
- なお、「共同監督」のはずの清水邦夫は、ほとんど現場にこず、東京の舞台で行われた「リハーサル」を演出しただけだった。
- つまり、この映画は、実質「尾中洋一監督作品」なのである。だが、当時のATG映画は、監督が資金を出して製作する方式であり、いくら現場で無能で役にたたない存在であっても、田原と清水はスポンサーであった。そのため、原一男が1993年に尾中にインタビューするまで、この「事実」は隠されていたのだという。
- 1975年、矢崎泰久らと日本ジャーナリストクラブ(JIC)を立ち上げる。その資金集めのため、新宿コマ劇場にて「のんすとっぷ24時間」という討論会(司会:中山千夏)を行い、撮影して、自分が勤務している東京12チャンネルに「番組」として売却した。このイベントが「朝まで生テレビ」の原型となったという<ref>『僕はこうやってきた』P.125~127</ref>。
- 出演者:青地晨、赤塚不二夫、阿佐田哲也、飛鳥田一雄、生島治郎、石垣純二、一柳慧、伊丹十三、井上ひさし、宇井純、上田哲、内田裕也、宇都宮徳馬、榎美沙子、小沢昭一、小沢遼子、太田薫、太田竜、大西信行、岡本愛彦、岡本太郎、加藤武、木の実ナナ、紀平てい子、木村武雄、久野収、栗原玲児、黒澤明、黒田征太郎、児玉誉士夫、小中陽太郎、佐々木更三、佐藤允彦、佐藤信、新谷のり子、菅原文太、鈴木志郎康、鈴木武樹、鈴木均、袖井林二郎、田中真理、高橋晄生、竹中労、立花隆、龍村仁、田英夫、中村とうよう、中村敦夫、野坂昭如、ばばこういち、花柳幻舟、原田奈翁雄、深作欣二、藤本義一、真継伸彦、前田武彦、松岡洋子、松田政男、三上寛、美輪明宏、八木正生、矢崎泰久、山藤章二、若松孝二、愛川欽也、渥美清、青島幸男、五木寛之、伊藤一葉、井上清、植草甚一、加藤登紀子、加納典明、梶芽衣子、篠山紀信、土本典昭、内藤国夫、羽仁五郎、不破哲三、深沢七郎、丸山真男、美濃部亮吉。
- 田原は文春でのインタビューの影響から、田中角栄に関する著書や記事を数多く寄稿している。その中の一つ『戦後最大の宰相 田中角栄〈上〉ロッキード裁判は無罪だった』にてロッキード事件は陰謀で田中角栄は無罪であるとの陰謀論を展開している。しかしその内容が誤解や伝聞や憶測だけで構成されていること、田原が指摘している内容の殆どがすでに反論されていること、事件の当事者にちゃんと取材していなかったこと等により、徳本栄一郎らから内容の破綻を批判されている。そして、このことに関して田原は現時点まで再反論は行っていない。
- また田原は創価学会名誉会長池田大作に複数回に渡って単独インタビューを行った。当時はオウム事件の影響で池田自身に証人喚問の要求が出ていた時期である。そして学会系メディア以外で池田はあまり登場しなかったので、インタビューは各方面で注目を集めた。
- この時代のノンフィクションの代表作である、「原子力潜水艦むつ」問題を扱った、「原子力戦争」(1976年) はATG製作で映画化・公開されたが映画は原田芳雄扮するヤクザが原子力発電所をめぐる利権争いに巻き込まれるという原作を曲げたものであった。それでも問題作ということで事実上封印作品になっている。また田原は発表時脅迫されたという。
- なお、この著書「原子力戦争」では、従来の田原ドキュメンタリー番組と同様に、関連する底辺の人々(反対運動、賛成運動の人々、原子力潜水艦の技術者など)に取材した。だが、実際にものごとを決めているのは、「社会の上部の政治家や官僚だ」と気がつき、その後、政治家や官僚について取材していく「契機」となった作品になったと、後に原一男に語っている。
- 『原子力戦争』の内容は、国会でも話題となり、大手広告会社の逆鱗にふれ、田原は東京12チャンネルを退職することとなった。
- 田原が東京12チャンネルを退職した直後に出した著書『翔べ田原総一朗』(創世社 1977年)の帯には、以下のような推薦文が書かれていた。当時の田原が、いかに高く評価されていたかが、わかる。
- 当時の田原のノンフィクションの興味は、企業や政治以外に、最先端科学も対象であった。近年の著書では科学関係のものは少なくなっているが、2006年に、『RNAルネッサンス 遺伝子新革命」という本を出していることからもわかるように、いまだに科学に興味を持ち続けているようだ。ただし、科学そのものには素人であり、その技術のもつ意義などは他人の論評の受け売りの場合が多く、科学技術を題材にしたルポなども技術ではなく、技術者や科学者の「生き様」に偏りがちになる。
- その後、執筆活動を経て、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』、『サンデープロジェクト』の討論コーナーの司会などを務める。
(出典:Wikipedia)
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