ランキングモンスター
翌年の1978年には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。この年は8年連続となる打点王を確保するが、これが現役時代最後に獲得した主要打撃タイトルとなった。
1979年は、打率.285、33本塁打、81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980、89四球と衰えは誰の目にも明らかであった。なお、この年の9月21日阪神戦で王にとって唯一の代打本塁打を放っている(ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが代打本塁打は1本も記録していない)。
そして1980年、打率は.236(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)、30本塁打、84打点に終わり、ついにベストナインの選からも漏れる。OPSに到っては.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。
30本塁打は一般的にはスラッガーとして恥ずかしくない数字だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。それでも王は、30号本塁打を放った時のインタビューで「来年の目標?笑われても言うよ、40本って」「来年は大台(通算900号)という目標があるからね。もうひと踏ん張りだね」と語ったり、圧縮バットが禁止される翌シーズンに向けて練習では白木のバットを使い始めるなど、現役続行に意欲を見せていた。後年、王自身が43歳まで現役を続けたかったと語っており<ref>21世紀への伝説史 王貞治 『気力編』&愛蔵本 発売:(株)メディアファクトリー・販売:(株)トップアスリート</ref>、すでに引退した大豊泰昭や現役の小久保裕紀、松中信彦、タフィ・ローズなどの強打者に対し、「43歳まで頑張ってプレーしなさい」と伝えている。
ところが10月、長嶋茂雄監督辞任、藤田元司監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。藤田は要請にあたり現役兼任を考えていたと語っているが、現役続行か引退か迷っていた王はこの要請を受け、ついに決断を下した。
11月4日、現役引退を表明。「王貞治のバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。王が後日、引退を決意した瞬間について、「その年(1980年)の後楽園球場での中日ドラゴンズとの試合で、先発した戸田(善紀)君の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『俺ももう御仕舞いかなあ』と思ったんだよ」と語っている。
公式戦最後となった通算868号(同年10月12日)の本塁打を打ったバットは、徳光和夫が所有しており、徳光が『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演した際に鑑定のため持ち込んだことがある。王は前述の八代のエピソードにもあるように、本塁打を打ったバットを知人にプレゼントすることが多かったため、当初徳光は自分の持つバットが本当に868号を打ったバットとは思わず、自宅で青竹踏み代わりに使っていたという。
引退表明から4日後の11月8日にナゴヤ球場で行われたセ・リーグ東西対抗戦では1本塁打を含む3安打と活躍、引退を惜しませた。
11月16日、熊本県営藤崎台球場で行われた対阪神・秋季オープン戦の最終打席にてライトスタンドへホームランを放っている。3塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後ホームイン。これが最後の打席・最後のホームランとなった。
引退セレモニーは11月23日のファン感謝デーイベントの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置きそのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行き、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行うように呼びかけた。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。
この時、堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトに本塁打を浴びた。王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。
1980年に現役引退をしたが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで1番ゲートは「王ゲート」と称された。また閉場の際、同球場の1塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦なくなるが、1998年に開場10周年を記念して同球場で1番ゲートは「王ゲート」として復活して現在に至る。