ランキングモンスター

王貞治-一本足打法について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
2.経歴
2.3.現役時代
一本足打法

1962年、荒川博が巨人の打撃コーチに就任。荒川就任は読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの<ref>『野球小僧白夜書房、2009年4月号、p203</ref>。川上は榎本喜八を育てた荒川の手腕に王の指導を託した。川上は、王の成績が思うように伸びないのは、練習に身が入らないために結果が出ず、そのために自信を持てず、さらに練習に身が入らない、という悪循環が起こっているためだと考え、荒川に最も強く期待したのは王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。秋季キャンプで久々に王を見た荒川は、「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川はこの時「これだけ悪い打ち方(打ちにいく際、手足の動きがバラバラな点だと説明)でも、二割七分打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。

荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまりボールを迎えに行ってしまうためグリップが安定しないことが欠点と判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。その1つが一本足打法だった。但し、キャンプの時はいくつか試した打法の1つに過ぎず、ほんの2、3日練習しただけだった。

このシーズン、開幕から3ヶ月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが言うのを聞いた荒川が、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返し、この日(7月1日)から一本足で打つことを王に命じた<ref>上前淳一郎『巨人軍影のベストナイン』角川文庫。なお、近藤唯之も同様の内容を記している。</ref>。

なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっその事右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている<ref>『スポーツ20世紀』ベースボール・マガジン社、2000年7月、p25</ref>。

1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でこの打法を試行、第1打席は二塁ゴロで凡退したものの、第2打席で稲川誠からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残した。後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。

王自身もこの日結果が出たことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋のが擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた<ref>堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年</ref>。

特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようである。

このような王の練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな!そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。

南海ホークス時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん(野村の愛称)、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。

その時野村は「ああ、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて遊びみたいなものだった」、「あれだけの練習した王だから、世界記録を作ってもなんら不思議ではない」と記している。さらに「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。

この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫くこととなった。1977年梶原一騎との対談<ref>'77 THE BASEBALL MOOK プロ野球党 (日本スポーツ社)</ref>では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。

前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた1人である。「全く隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。

1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の2枚看板を背負うようになった。

周知のとおりこの打法で世界新記録が達成されるが、米メディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶものもいたが、これに由来するものである。1981年~1987年までは後楽園球場・1998年~現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されているが、そのモニュメントで再現されている。また2002年に王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売されたが、それにもこの打法が再現されている。

(出典:Wikipedia)

ランキングモンスタートップ王貞治>一本足打法

王貞治を検索
王貞治のブログを検索
王貞治の動画を検索
王貞治の画像を検索
王貞治の書籍を検索
王貞治の音楽を検索
王貞治のDVDを検索
人気の音楽・映画・コミックのランキングランキング★モンスターでチェック!