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2.球場の歴史
2.1.建設の経緯
大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は豊中球場に始まり第3回大会から鳴尾球場で開催されていたが、人気の高まりにつれ同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなっていた。後に試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、特に1923年の第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中が決勝戦で和歌山中との近畿対決を制したことから、中等学校野球人気がピークに達した。この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案した。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も鳴尾村(1951年に西宮市と合併)に流れていた申川(さるかわ・武庫川の支流)を廃川とした後にできた埋め立て地の開発の一環として新球場の計画を進めており、利害が一致した。国内の球場では参考になるものがなく、アメリカ合衆国ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでは紅洲(べにす)遊園地と名づけられていたが、この年が十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起の良い年であることから、後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名された。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月11日に竣工式が行われた。
当初はも翌年から開催されている。
(出典:Wikipedia)
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