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1493年11月19日のクリストバル・コロンによる到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が続けられ現在に至る。当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ(サンフアン)島」と呼ばれサン・フアン市街を「豊かな港(プエルト・リコ、プエルトが港(puerto は英語の Port)、リコは豊かな(rico は英語の Rich)という意味)」と呼ばれていた<ref name="ronbun kadokawa"/>が、地図作成者の取り違えによって入れ替わってしまい、今の呼称になっている。
こうしてプエルトリコはコロンにより既に発見されたが、本格的な征服は遅れて1508年スペインから総督としてやって来たフアン・ポンセ・デ・レオンらのコンキスタドールによって征服がなされた。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、プエルトリコへの本格的な入植がはじまった。ポンセは島を「サン・フアン・プエルト・リコ」と呼んだ。
最初の入植地はサン・フアン港の近くにある) の建設も開始された。
16世紀から18世紀にはイギリスやオランダの海賊の攻撃を何度か受けたが、フランシス・ドレーク卿の襲撃を撃退したように海賊の襲撃は成功せず、プエルトリコは一貫してスペインの植民地だった。1797年のイギリスによる攻撃を最後に以降100年近く平和の時期が訪れる。
1808年に勃発した半島戦争により、スペイン・ボルボン朝のフェルナンド7世がフランス帝国のナポレオン・ボナパルトによって退位させられたことをきっかけに、ラテンアメリカ大陸部のクリオージョに自治、独立の意識が芽生え、ベネズエラのシモン・ボリーバル、アルゼンチン(当時はリオ・デ・ラ・プラタ連合州)のホセ・デ・サン=マルティン、メキシコのミゲル・イダルゴらがスペインからの解放戦争を行ったが、フランス領サン=ドマングでのハイチ革命の際には黒人奴隷の蜂起によって白人支配が崩壊したこと、ラテンアメリカ各地からの王党派の難民が多く亡命してきたことなどにより、スペイン帝国最後のインディアス植民地となったキューバとプエルトリコでは独立運動が発生しなかった。
プエルト・リコでは19世紀に入るまで小農民による自給自足的な経済が営まれ、スペインによる植民地支配も相対的に緩やかなものだったが、こうして流入した難民によって1833年には人口33万人を数えた。スペイン政府によってキューバと同様に、奴隷解放によって砂糖供給から没落したサン=ドマングに代わるためのサトウキビのプランテーションが奨励されたが、キューバに比べて資本集積の度合いが低かったために効率的なプランテーション形成が進まず、結果として国際競争力を確保できなかったため、キューバやペルーやブラジルの砂糖に押されて砂糖生産は停滞し、代わりに島中央部の山間部で小農によって行われたコーヒーが主要輸出商品となった。このため、キューバやブラジルと同様に黒人奴隷制度は維持されたものの、プエルト・リコでは砂糖プランテーションが発達しなかったために黒人奴隷の大規模な導入には繋がらなかった。
19世紀後半になると、同様にスペインの植民地だったキューバと連動した独立運動が起こり、1868年には山間部のラーレスで最初の独立蜂起が勃発した。スペイン当局は1873年には奴隷制を廃止したものの、もはやプエルトリコ人の独立への願いを止めることは出来なかった。やがてキューバの独立戦争がはじまると、プエルトリコでも反乱が起き、焦ったスペイン当局により、1897年にプエルト・リコ側とスペイン側の合意によって自治が認められ、1898年3月に自治政府が成立するが、同年4月にハバナで起きた戦艦メイン号の謎の爆沈事件により勃発したアメリカ・スペイン・キューバ戦争により、プエルトリコは8月にはアメリカに占領され、終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となった。