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4.経過(アジア・太平洋)
4.1.日本の参戦

1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職。その後もヨーロッパの戦争に不介入の方針をとっていたが、1940年6月、フランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及んで近衛文麿内閣は同年9月27日、日独伊三国同盟を締結した。親独ヴィシー政権成立後、中国への援助ルート遮断を目的に日本軍は北部仏印進駐を開始した。アメリカとの戦争回避のため、日米交渉が1941年4月から開始されたが、軍部の強硬姿勢やフランクリン・ルーズベルト大統領の対日強硬策などにより交渉は難航した。

1941年6月の独ソ戦開始後、陸軍の一部には対ソ参戦を目指す北進論もあったが、ノモンハン事件での敗北後は北進に消極的な意見が強く、また資源確保には南進が重要であり、蘭印オランダ領インド、現インドネシア)からの軍事物資大量買付け交渉が失敗すると、同年7月28日の南部仏印進駐を開始した。アメリカは対抗措置として在米日本資産を凍結。さらに石油禁輸に踏み切った。これによってアメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼んだ。

外務省は同年晩秋まで日米交渉を続けたが、同年10月18日、強硬派の陸軍大将東条英機内閣が成立。中国からの撤退で妥協する事は不可能となった。 11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使野村吉三郎駐米大使に通称ハル・ノートが手渡された。中国大陸から全面撤退すべし、との強硬な撤退要求を受け、日本政府はこれを、全占領地からの撤退要求と解釈。事実上の最後通牒と認識し、日米交渉は完全に決裂した。同日、日本海軍機動部隊は南千島択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。

12月1日の御前会議で、事実上軍部に牛耳られていた日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対しアメリカ政府との交渉打ち切りを指示していた事を、既にアメリカ政府は暗号解読によって察知していたといわれている。また、当時ナチスドイツに対し劣勢だったイギリスのウィンストン・チャーチル首相、中華民国の蒋介石総統らによるアメリカ参戦の要望も強かった。

(出典:Wikipedia)

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