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管領-概要について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.概要

草創期の足利幕府(室町幕府)は、元来一御家人であった足利家の家宰的役割を担い主従制という私的な支配関係を束ねた執事が将軍足利尊氏を補佐する一方で、尊氏の弟直義が訴訟・公権的な支配関係を担当する二元的な体制を執っており、足利家譜代家臣の高師直仁木頼章細川清氏がこの執事職を務めた。

荘園公領制など従来の制度・秩序の維持を重視する足利直義と諸国武士の権益拡大を進めてこれを統率しようとする高師直の対立によって引き起こされた観応の擾乱を経て、直義派は退潮し、2代将軍足利義詮の時代には裁判機関である引付衆の役割を縮小して執事の権限を強化し、一元化な体制の確立を目指した。

1360年、執事細川清氏は前執事仁木頼章の弟仁木義長を勢力争いの末に破り、翌年その清氏が佐々木道誉との確執によって幕府を追われて南朝に降った。このように執事職をめぐる権力闘争が繰り返され、しばらく将軍親裁となったが、1362年にはわずか13歳の斯波義将が執事に任じられ、父の斯波高経が後見した。これは、斯波氏が足利一門の中でも鎌倉時代から足利宗家と同格の御家人で家格も高く、当初就任を求められた高経が足利家譜代家臣の職に就いては家名に傷が付くとして拒否し、再三の要請に仕方なく応じた結果である。執事から管領への転換はこのころのことと考えられる。管領とは「天下を管領する」というような意味である。

1366年には斯波高経・義将は佐々木道誉らとの確執で失脚し(貞治の政変)、再び将軍の親裁となった。しかし翌年、将軍義詮の死の直前、四国平定や細川清氏討伐などで活躍していた細川頼之が呼ばれて管領に就任する。以後は、政務は管領が統括し、足利将軍家の家政は政所へ移行するようになった。頼之は、幼い3代将軍足利義満を補佐して幕府体制の安定化に努めた。九州には今川了俊を派遣して南朝方の掃討を進め、吉野の南朝とは講和交渉を行いながらこれが不調に終わると楠木正儀を味方につけて南朝を攻撃、南朝の抵抗はほぼ途絶えた。また、応安の半済令を出し、内乱の中で行われてきた半済を所領の折半として恒久化し武士の既得権を認める一方、有力荘園領主(皇室・摂関家・寺社)の一円支配地については除外して保護することで、双方の利害対立に一定の決着を図った。

1379年、細川頼之は康暦の政変で失脚し、斯波義将が復帰するが、その後も管領職をめぐり斯波氏と細川氏は対立した。1398年に畠山基国が管領になると、それ以降は足利一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家から交代で任じられることとなる。

4代将軍足利義持時代には宿老を中心とする合議制となり管領職の地位が低下し、経済的負担もあったことからまず斯波家が衰退する。6代将軍足利義教は将軍への権力集中を目指して奉行人制度や奉公衆を強化し、管領の権限は形骸化。義教は、さらに斯波氏や畠山氏の家督争いに介入し、その後の両家の衰退の遠因となった。

8代将軍足利義政時代に起こった応仁の乱では、はじめ管領の斯波義廉山名宗全(持豊)率いる西軍に属し、将軍義政らは細川勝元率いる東軍に確保されており、幕府における将軍と管領が分裂することとなった。1468年には細川勝元が管領となる。

応仁の乱後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占する。細川勝元の子細川政元1493年明応の政変で将軍を廃立し、専制権力を確立した(細川京兆家政権の成立)。だが、後継者を巡って政元が家臣に暗殺されると、細川氏は分裂して長期の抗争を繰り広げた。1500年代には大内義興三好長慶六角定頼らが管領代として幕府に君臨し管領職は形骸化していった。そして1563年細川氏綱の死後、自然消滅の形で廃絶した。

(出典:Wikipedia)

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