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大日本帝国憲法-制定後の出来事について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.沿革
1.6.制定後の出来事

1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、被告人に対する死刑を求め司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、被告人を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。

1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党海軍軍令部右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。 1935年(昭和10年)、貴族院議員で陸軍中将菊池武夫が、当時通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説を、国体に反するものと非難。主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は、反論の演説をするも攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、また美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。ちなみに、昭和天皇はこの時、「機関説で良いではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押しつぶされたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治は、その実質を失ったことを示す。

(出典:Wikipedia)

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