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4.経済

当時の大日本帝国は朝鮮を大陸侵出のための重要な拠点と考え、また日本内地に比して遅れていた工業化を補完する目的もあり、朝鮮の近代化のために多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、結果的に朝鮮半島の近代化に役立っていった。鉄道路線の敷設や日本製鐵清津製鉄所)や三菱製鉄兼二浦製鉄所)による製鉄所の建設、日本窒素肥料(現:チッソ)の進出による水力発電所建設などが行われ、朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林砂防ダム建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による植民地政策には見られないものであったとする見方もある<ref>Cumings Bruce (1984a), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton:Princeton University Press</ref>。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4パーセントで、同じ期間の欧州(1パーセント台)や日本・米国(3パーセント台)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4パーセントと高い成長率を記録していた結果が出ている<ref>「1920~30年代の成長率4.1%」 2004年3月3日 朝鮮日報</ref>。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。植民地統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因のひとつともなった<ref>「我が観たる満鮮」p52~55、中野正剛</ref>。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境におかれた<ref>この例の一つとして、日本窒素肥料の朝鮮における朝鮮人労働者への劣悪な取り扱いなどがあげられている(「聞書水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった」、岡本達明編著)</ref>。

朝鮮王朝末期には大部分で未だに道路の舗装などが行われていなかった京城(朝鮮時代の漢陽、現在のソウル)は、区画整理が行われ路面電車が走る都市となった。衛生面では、朝鮮半島で流行していたコレラ天然痘ペストなどの伝染病の予防政策も行われて乳児死亡率は減少し、また農地の開発により食糧生産量も激増したことで、人口は、併合時(1910年)の調査では13,128,780人<ref>併合の4年前1906年には1600万人程とする推定もある、朝鮮末期の人口統計には漏れがあり、1906年の警務顧問部の日本人の調査によるものと思われる統計では9,781,671人であった。(「日本の植民地支配-肯定・賛美論を検証する」P.30、水野直樹著)</ref>だったものが1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた<ref>朝鮮総督府『統計年報』</ref><ref>黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社</ref>。

総督府は土地所有者の調査をして所有者のいない土地を接収し、東洋拓殖に買い取らせ、進出した日本人や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである<ref>山本有造著『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会</ref>。農地が新たに開墾されたことに加え、前述の水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は増大した。但しの多くが日本(内地)に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年~1921年の平均0.68に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した。<ref>朝鮮総督府農林局「朝鮮米穀要覧」</ref>この状況をさして、「飢餓輸出」とよぶ研究者も存在している。<ref>「日本による朝鮮支配の40年」P.111、姜在彦著</ref>しかし逆に全相仁らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加しているとする研究者もいる。また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられる。ソウル大学李栄薫教授は韓国の「日帝による土地収奪論」は神話であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている<ref>ソウル大教授、日本による土地収奪論は神話</ref><ref name=lee>ソウル大学、李栄薫教授食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない</ref>。加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」とする見解も存在している<ref>日本統治時代の韓国人の平均身長 2006年2月18日朝鮮日報</ref>。

李朝末期の韓国は、道路や、農地、山、河川、港湾などが荒廃しきっており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)によって責めたてられて収奪されていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、韓国人農民に多大な利益をもたらすようになった。また水利組合をつくったおかげで安心して農耕ができるようになったという面も存在する<ref>『醜い韓国人』朴泰赫</ref>。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物がサムスングループの創始者である李秉喆である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年大邱にて三星商事を設立し、これがのちのサムスングループに発展していった<ref>2007年12月7日KBS WORLD</ref>。

一方で増え続ける人口を農村では吸収出来ず、京城などの大都市でプロレタリアートとして生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することが出来ず、火田民となるもの、職を求めて日本や満州に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身のプロレタリアート層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てたスラム街を形成し、「土幕民」と呼ばれるものも存在した。<ref>「日韓新たな始まりのための20章」p36~37、松本武祝執筆</ref>

植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる<ref>日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済</ref>が、それも市場を通じた商行為にすぎず<ref name="lee" />、利益を得ていた朝鮮人も当然に存在し統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。

2004年に発表されたソウル大学の調査結果によって、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化は、第1次産業では75%から45%になり、第2次産業では7%から22%になり、第3次産業では18%から33%となり、資本経済化が飛躍的に遂げられたことが明らかにされた。また、1912年から1937年にかけての年平均実質GDPは4.10%、実質GDEは4.24%の成長をなしており、同時代の日本本土やアメリカの3%台、欧州の1%台を上回り、世界恐慌下においても急速な成長を遂げていたことが明らかにされた。<ref>「1920~30年代の成長率4.1%」 (朝鮮日報 2004/03/03)</ref>

現在の朝鮮半島では南北を問わず朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた、というのが一般的な学説となっている。しかし、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には全く存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している<ref name="Harvard" />。

(出典:Wikipedia)

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