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1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった<ref>韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっている</ref>。
朝鮮総督府は鉄道から医療まで朝鮮半島へ最新鋭の各種インフラを導入して整備するとともに、教育にも力を入れ、学校も数多く建設した。そのため、朝鮮人の寿命も伸び、人口は1910年の1313万人から1942年には2553万人と倍増し、小学校も併合直前には100校程度だったものが1943年には4271校まで増え、朝鮮人の識字率は1910年の10%から1936年には65%まで伸びることになった<ref name=Harvard>『日本帝国の申し子』 カーター・エッカート著(ハーバード大教授)ISBN 4794212755 ※この研究著書は「ジョン・ホイットニー・ホール・ブック賞」(アジア研究協会)、「ジョン・キング・フェアバンク賞」(アメリカ歴史学会)をそれぞれ受賞し、欧米で高く評価された。</ref>。
併合当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名<ref>水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁</ref>。)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期からの一部の抗日運動を抑えようとした。1919年の3.1独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は3.1運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の植民地政策を限定的ながら修正し、言論や結社の自由が与えられた。そのためこの時代には比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な合法的・文化的な民族運動が繰り広げられた。この時期には朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。
満州と接する北部国境地帯では朝鮮独立を掲げる民兵組織と朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。また朝鮮でも、1919年には振興会、2004、140頁)という表現を用いている。対して名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等では「鎮圧」としている</ref>。
公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締りは植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強めるものもいた。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたとされる。そのため時には朝鮮総督府側でさえもが朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないという危惧を表明した<ref>宮田節子「朝鮮民衆と『皇民化』政策」。</ref>。
当時の大日本帝国は朝鮮を中露と対峙するための重要な拠点と考えており、また欧米に比して遅れていた工業化を補完する目的もあり、朝鮮の開発を行った。他方これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。労働者の権利という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は劣悪な環境におかれるものもいた。
における日本軍の玉砕を報じるハングル新聞が発行されていた例もある。
第二次大戦中は朝鮮人志願兵の募集がなされ、李王垠、洪思翊をはじめ陸大を卒業し日本軍中将まで出世する者もおり<ref>1942年に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、25,4173名の朝鮮人志願兵が集まり、62.4倍の倍率に達している(国立公文書館 アジア歴史資料センター 朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)レファレンスコード:B20020312847)</ref>、また軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した<ref>当時陸軍を中心に、アジア・太平洋戦争における日本民族の人的消耗を避けるため植民地の人的資源の活用は避けられないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制はその帰結であったする意見もある。(「朝鮮民衆と『皇民化』政策」、p102~p103、宮田節子著)。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の植民地保有国にくらべると(イギリスはは第二次大戦中三百万を超えるインド人兵士を動員した)、植民地人の軍事利用には消極的であった。</ref>。また徴用により内地(日本)に行かされ、労働に従事した労働者や、日本軍に対する慰安婦となった女性もいた。<ref>「現代朝鮮の歴史」第3章、ブルース・カミングス著</ref><ref>これらの慰安婦について、日本軍の行った人権侵害であるとする立場と、日本の右派・保守派を中心に慰安婦について「単なる売春婦である」とする見解がある。また「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」とし、「日本版歴史修正主義」と反論しているものもいる(高橋哲哉『歴史/修正主義』岩波書店、2001年、ⅲ頁)</ref> 2009年1月30日、韓国国務総理室傘下の日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会はおよそ12万人の朝鮮人が徴用されたと発表し、それを「強制動員の被害者」としている<ref>Japan forcibly mobilized 120,000 Koreans as laborers: panel YONHAP NEWS AGENCY 2009-01-30</ref><ref>日本による強制動員の被害者、約12万人を確認 聯合ニュース 2009/01/30</ref>。
日本統治に終止符を打ったのは1945年の日本の第二次世界大戦での敗戦であった。1945年8月15日に、玉音放送により日本の敗戦が知らされたため、植民地朝鮮では祖国の解放を知り朝鮮人が喜びをあらわにする光景が各地で見られた、と述べる者もいる。この日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている。ポツダム宣言を受諾したことにより、日本は朝鮮半島における権原を失い、そして1945年9月9日、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体した。
終戦直後、朝鮮総督阿部信行陸軍大将と朝鮮軍司令官上月良夫陸軍中将により朝鮮へは自治権が与えられたが、アメリカ合衆国はこれを認めず、進駐の翌日9月9日に軍政を布告。ソ連と共に朝鮮半島を北緯38度線を境に南をアメリカが、北をソビエト連邦が占領(分割占領)した。その後連合軍軍政期を経て北緯38度線より南側が大韓民国(韓国)、北側が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソビエト連邦が北朝鮮を支援し、1950年に朝鮮戦争が勃発した。
なお、日本が残した産業資源の多くは北部に集中していた。このため朝鮮戦争からしばらく、北朝鮮は工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していた。韓国は北朝鮮よりも貧しかったが、日本の援助とベトナム特需によって漢江の奇跡という大幅な経済発展を達成した。