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舞台芸術学院に学び、26歳の時大映に入社、「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。1960年に日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子と最初の結婚をする<ref>ただし、大江健三郎の初期作品「性的人間」に登場するプレイボーイの芸能人のモデルは伊丹であり、伊丹の行状についての噂より川喜多家からはこの結婚には反対の声も強かったという。シナリオ別冊「脚本家白坂依志夫の世界 書いた!跳んだ!遊んだ!」より。 </ref>(1966年10月26日、協議離婚)。同じ年に作家であり友人の大江が妹ゆかりと再婚する。1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。1969年に「伊丹 十三」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)では、キネマ旬報賞助演男優賞を受賞している。
1960年代には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた<ref>「これらエッセイにおける、気障に映りながらも、物事の本質をその細部にいたるまで理詰めで探求していく独自のスタイルは、その後の多くのエッセイストに影響を与えた」『伊丹十三の本』(「考える人」編集部) ISBN 410474901X</ref>。
1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時培ったドキュメンタリー的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き書体はこの時代の経験を反映している。また70年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、“緻密な画力”で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。
1969年に山口瞳の媒酌で女優の宮本信子と再々婚し、宮本との間に子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の名前をそのまま取って命名された。
岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。『哺育器の中の大人』(1978年)は、伊丹が岸田から唯幻論についての講義を受けるというスタイルの対談である。また、岸田らを中心に取り上げた現代思想の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)を1981年に創刊し、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。
この一方で、文化人達が伊丹の周辺に集まり、一種のサロンを形成している。コピーライターの糸井重里、自称「ゲージツ家」の篠原勝之、作家の村松友視などである。