ランキングモンスター
1590年、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原の役の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。
北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五カ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝をはじめとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代はじめに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、その後断絶することになる。
江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから大きな大名家は置かれず、小大名領と旗本領・天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役をつとめた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。ちなみに下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新に徳川家達の静岡藩移封に伴い、静岡藩に編入された駿河・遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。
江戸前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こったが、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした『伝説的義民』として、芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆がおきるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並か少し高いくらいで恵まれた地域であった。
江戸時代を通じて県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉<ref>『詳細については享保の大飢饉を参照</ref>対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の幕張村(現千葉市花見川区)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。
また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧・佐倉牧・嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所や江戸名所の一つに数えられ、松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本ではじめて生産<ref>嶺岡牧があった場所には2008年現在千葉県畜産総合研究センター嶺岡乳牛研究所があり、日本酪農発祥之地の記念碑が建っている。</ref>された。
江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、街道や水運なども整備され、宿場町や間の宿が形成された。