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2002年大統領選挙に際し、新千年民主党(以下、民主党)の大統領候補の選出は、アメリカ合衆国の予備選挙制に似た国民参加選挙(国民競選)を通じて行われた。立候補登録を行ったのは、金重権、盧武鉉、鄭東泳、金槿泰、李仁済、韓和甲の各常任顧問と柳鍾根全羅北道知事の7名だった。世論調査では李仁済が優勢とされ、またハンナラ党の大統領候補李会昌による忠清圏票の独占を防げるということで、「李仁済大勢論」(李仁済以外にいない)と思われた。だが、李仁済では李会昌に勝てず、進歩主義陣営の票を取りこぼすと主張する意見もあり、それは急速に「盧武鉉代案論」として浮上した。
全国で行われた予備選挙で、盧武鉉は蔚山、光州と勝利を重ねた。嶺南と湖南で勝利したことにより、民主党候補が地域対立を越えて大統領に当選する期待を抱かせた。苦戦する李仁済は盧武鉉の思想、財産、盧武鉉の義父の左翼歴にいたるまで取り上げて批判した<ref>盧武鉉の義父は朝鮮戦争中に北朝鮮側に立って労働党昌原郡党副委員長などを歴任し、反動分子の調査と虐殺に加担したとされる。『「盧大統領の義父はパルチザン」発言が無罪に』、朝鮮日報、2004年10月27日。また、このような李仁済の指摘に対し、盧武鉉は「ならば愛する妻を捨てろというのか」「どうしてそれが問題になるのか」と反論した。</ref>。だが大勢を覆すに至らず、盧武鉉は勝利を重ねて「盧風」(盧武鉉旋風)を巻き起こした。そして4月27日に民主党の大統領候補に選出された。
しかし金泳三との和解を演出した「YS腕時計事件」<ref>『盧候補がYSを12年ぶりに訪問』、朝鮮日報、2002年4月30日。</ref>は、進歩・改革の旗手として支持者が描いていた盧武鉉のイメージを傷つけた。また、金大中の側近や親族の逮捕は民主党の大統領候補である盧武鉉への逆風となり、6月の統一地方選や8月の補選に惨敗した民主党では候補の交代や、鄭夢準との候補一本化が取り沙汰されるようになった。
このような事情から、盧武鉉は鄭夢準との候補一本化を模索した。調整の結果、二人はテレビ討論会を行い世論の支持を集めた側を統一候補として擁立する事にした。テレビ討論会は11月22日に行われ、その後の世論調査で盧武鉉は46.8%、鄭夢準は42.2%の支持率となり、盧武鉉が統一候補に決定した。そして大統領選挙戦は、事実上盧武鉉とハンナラ党の候補李会昌の一騎打ちとなった。
11月20日、在韓米軍の軍事法廷は6月に女子中学生を交通事故死させたアメリカ兵に無罪の判決を下した。これは米韓行政協定(SOFA)のもとに行われたことだったが、民主活動家たちが運動を活発化させるきっかけを与えた。労働組合や左派団体はも参照)。
2002年11月27日および28日、盧武鉉と李会昌、民主労働党の權永吉ほか4名が大統領選挙の候補に登録を行い、選挙戦が正式に開始した。盧武鉉は金大中による太陽政策(包容政策)の継承、行政首都を忠清圏に移転するといった政治改革や、7%の経済成長を公約に掲げた<ref>李会昌が6%の経済成長を公約に掲げたため、対抗して7%という数字を出したといわれている。『7%成長公約を「腹が立って」出したとは』、朝鮮日報、2004年11月5日。</ref>。一方、比較的親米的な李会昌は金大中政権の路線を全面的に転換することを望み、対北・対米方針の違いが、大統領選挙の主要な争点の一つとなった。
投票日前日の12月18日、鄭夢準が盧武鉉への支持を撤回するというハプニングが起きた。対北朝鮮政策の違いや、将来の大統領をめぐる盧武鉉の発言など原因であるといわれている<ref>『鄭夢準氏、盧候補の支持を撤回』、朝鮮日報、2002年12月18日。</ref>。しかし土壇場での「裏切り」はかえって盧武鉉への同情を呼び起こし、またノサモによる盧武鉉への投票の呼びかけが功を奏して、盧武鉉は約57万票差の僅差で李会昌を制し、第16代大統領の座を射止めた。なお、地方での得票率においては盧武鉉は湖南地域で軒並み90%以上を獲得する一方、大邱広域市の一部で20%を下回るなど一部地域間での差が顕著に表れた。