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日本の国旗-近世から近代について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.国旗として扱われる以前の歴史
1.2.近世から近代

近世には簡易な装飾として普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。

一方、船印としては、薩摩藩に服属していた琉球王国が中国への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる<ref name="byobu">『琉球貿易図屏風』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)参照。高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』81-82頁。なお『琉球貿易図屏風』は、1999年の修復時に1830年代以降、薩摩藩の関与で制作されたことが判明している。</ref>。進貢船の派遣自体は14世紀まで遡るが、日の丸を掲げるようになったのがいつからかは定かではない。しかし19世紀初頭の屏風絵<ref name="byobu"/>にははっきりと描かれている。他にもハーリーで用いられる爬竜船の船尾部にも日の丸の幟が掲げられていた<ref name="byobu"/>。

ちなみに日の丸(日輪)は、琉球でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれていた。琉球では、古くから太陽神が信仰されており、進貢船の日の丸も航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものである<ref>与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』46頁参照。</ref>。

近世における船旗関連の資料としては、の所持船には日の丸を用いることもあった。

また、1673年寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布し、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。

1854年嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕府の重臣は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、俗に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったと言われている。翌1855年安政2年)、島津斉彬は琉砲船「昇平丸」<ref>琉砲船とは大砲を積んだ琉球船という意味で、昇平丸は二本マストの琉球船にマストを一本追加して三本マストにした西洋風帆船であった。</ref>を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である<ref>暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照</ref>。

1859年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上国旗の地位を確立したのはこれが最初である。

1860年万延元年)、日米修好通商条約批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンを謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイパレードする模様が伝えられている<ref>遣米使節団のブロードウェー・パレード、在ニューヨーク日本国総領事館</ref>。これが日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。

(出典:Wikipedia)

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