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伊豆大島-近代以降について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
2.歴史
2.4.近代以降

明治になると、1882年(明治15年)に秋広平六が西洋帆船を建造し、本土との往来などに使われた。1897年(明治30年)には相陽汽船が伊東(現・静岡県伊東市)との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が和船の運航を始めた。1900年(明治33年)に逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の元町港や波浮港から東京横浜へ直接向かった。

1906年(明治39年)には東京湾汽船が大島・伊東間に定期航路を開設し、翌年には東京~大島航路や東京~大島~利島新島式根島神津島航路が命令航路となり、大島への寄港回数が年間96回以上となった。定期航路が整備されると和田三造坂本繁二郎中川一政村山槐多らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、1928年昭和3年)に東京との間に日航便が就航し、同年には野口雨情作詞・中山晋平作曲の波浮の港の歌が流行したこともあって観光客が増加した。1931年(昭和6年)には三原山の砂漠溶岩原の通称)にロバラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園している。

横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の放牧山羊が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は肉牛の生産が活発になった。さらに明治30年代に乳牛酪農が主流となり、1926年(昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁されたは、従来の主要な商品だったとともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は明治以降に機械油や整髪油として生産が増加した。1916年大正5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。

インフラストラクチャー面では1872年(明治5年)に野増で初の小学校が開校し、1875年(明治8年)に新島村と波浮で郵便局が開局した。1902年(明治35年)には下田(現・静岡県下田市)と大島の間に海底電線が開通している。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の電灯が設けられ、1927年(昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、1934年(昭和9年)には本土との間で電話が開通した。1933年(昭和8年)に大島六か村自動車道路が作られると、1935年(昭和10年)には島内でバストラックが運行されるようになった。なお、1940年(昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸桟橋を持つ岡田港が竣工した。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、海軍第二魚雷艇特攻隊の中間基地として波浮港が接収された。また、1945年(昭和20年)6月には本土決戦に備えて第321師団が編成されている。ほとんどの民家が部隊によって接収され島民は集団疎開を命じられて一部は長野県へ疎開したが、輸送船が足りずに命令は撤回された。

戦後の1946年(昭和21年)1月29日に占領政策から伊豆諸島は日本の行政から切り離されることになり、島民の中には暫定憲法を制定する行動もあったが、3月22日に方針が変更されて分離は行われなかった。その後、1965年(昭和40年)1月11日には元町大火があり、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て災害救助法が適用された。1986年(昭和61年)に三原山が噴火した際、全島民が1か月にわたって島外避難した。

(出典:Wikipedia)

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