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2.治世後半
バルカン半島の再キリスト教化を夢見る国王は、無謀な対トルコ戦争を構想し、セイムを牛耳るシュラフタやマグナートには秘密裏に計画を推し進めた。ヴワディスワフはウクライナ・コサックを利用しようと考え、コサックは自治権の獲得を期待して協力的態度を取った。しかし計画を知ったシュラフタ達は、戦争の再発が王権の増大に寄与するのを恐れて、セイムの決議(1646年、1647年)で国王の計画を葬った。期待を裏切られたコサックは1648年、ボフダン・フメリニツキーの指揮で共和国に対する反乱を起こした。ウクライナ・コサックはクリミア・タタールと連合してポーランド領内へ攻め込み、1648年5月にポーランド軍を撃破した。ヴワディスワフ4世は同月、迫りくる大洪水時代を前に病死した。国王には後を継ぐべき嫡子が生存しておらず、腹違いの弟ヤン・カジミェシュが新王に選出された。
ヴワディスワフの治世は本格的にシュラフタによって王権が制限され、軍事行動などは度々阻止された。国王は王権の威信を回復すべくマグナートの一部と結んで、「無原罪の聖母マリア騎士団」創設(1637年)を始めとする王権強化政策を試みたが、シュラフタ達が国王の絶対主義志向に拒絶反応を示したことで完全な失敗に終わった。宗教面では、国王自身は宗教的寛容を目指していたが、全体としては対抗宗教改革の流れに逆らうことは出来なかった。とくにカルヴァン派を中心とするプロテスタント陣営への迫害が強まり、1647年には勅令によってポーランド兄弟団が経営する全ての学校と印刷所の閉鎖命令が出された。
(出典:Wikipedia)