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1979年、第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任し、この在任中に政治家としてのライフワークとなる郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)の民営化を持論としたといわれる。
大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分をつくらない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。
1978年に福田赳夫夫妻を媒酌人にエスエス製薬の創始者泰道照山の孫と結婚し、その間に3人の子どもをもうけたが1982年に離婚。「離婚するのは、結婚の十倍のエネルギーが必要だ」として、以後は独身を通している(家族構成を参照)。
1988年、竹下内閣改造内閣で厚生大臣として初入閣し、就任早々に厚生年金支給年齢を60歳から65歳に引き上げた。
1989年にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として、衆議院議員の選挙制度をそれまでの中選挙区制から小選挙区を軸とした制度への選挙制度改革が叫ばれ、このとき小選挙区制の導入に強硬に反対したことから、推進派の羽田孜と対立した。
1991年、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)・加藤紘一(宮沢派)と組んで、海部続投阻止・経世会支配打倒を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派・宮沢派の反主流派が結束し、海部を総裁選不出馬に追い込んだ。
1992年の宮澤内閣改造内閣で郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)等の反発で失敗に終わった。また郵政大臣在任中にもかかわらず郵政民営化論を主張する小泉に対し、政務次官が「大臣にはついていけない」と辞表を提出したこともあった。
国連カンボジア暫定機構(UNTAC、United Nations Transitional Authority in Cambodia)に派遣されていた日本の文民警察官が武装グループに襲撃され、1人が死亡、4人が重軽傷を負う事件が起こった際には、閣議の席で、「血を流してまで貢献しろ、ということでは無い。金やものでの貢献ではいけないということから、汗を流そうということだ」<ref>1993年5月7日、閣議での発言</ref>、「カンボジアは実質内戦に近い状態にあり、事実上危険な状態であれば、PKOの引き揚げも今後の選択肢に入れるべきだ」<ref>『朝日新聞』1993年5月7日</ref>等と語り、自衛隊カンボジア派遣に異議を唱えた。
また、この死傷事件をきっかけにタケオ州に駐在する自衛隊施設大隊が選挙監視要員を支援することにした政府決定についても異議を唱えている<ref>「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策をとったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見</ref>。さらに、5月18日の閣議でも「日本独自の判断で文民警察官をより安全な場所に移動させよ」「政府は国会でいってきたこと、国民に約束したことを尊重すべきだ」とした<ref>『朝日新聞』1993年5月14日夕刊</ref>。
1993年、羽田孜・小沢一郎ら羽田派(改革フォーラム21)らの賛成もあって、宮澤内閣へ不信任決議が可決され、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を割った。小泉は、宮澤の責任や退陣を閣僚懇談会でも要求し、郵政大臣を辞職した。