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昭和-太平洋戦争(大東亜戦争)について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
3.時代の流れ
3.2.太平洋戦争(大東亜戦争)

日中戦争支那事変)開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、昭和15年(1940年)10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁のである、幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出た。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿東條英機小磯國昭鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また昭和16年(1941年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。

アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・イタリア王国日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰ノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は昭和16年(1941年)晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相中華民国蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争とした)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。

昭和16年(1941年12月8日(現地日12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。

昭和17年(1942年)、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会農業報国連盟商業報国会日本海運報国団大日本青少年団大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視に晒されることとなった。

当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、昭和18年(1943年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。

日本海軍は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、昭和20年(1945年)に解散し、国民義勇隊に改組された。

昭和19年(1944年)7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、昭和20年(1945年)3月10日には、大量無差別虐殺である東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。7月26日連合国ポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。日本がなおも戦争継続の意思を示していたため、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下長崎市への原子爆弾投下が行われた(当初は京都に投下される予定だった)。

日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布告(ソ連対日参戦)し、満洲に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じることとなる。ソ連参戦によって万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌8月15日正午、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送いわゆる玉音放送により日本国民に伝えられた。

こうして日本だけでも300万の、関係諸国を入れると2000万から3000万(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。

(出典:Wikipedia)

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