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1.生涯
1.5.最期
永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢は畿内で蜂起し、三好氏は三好義賢が戦死するなど衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562年)には、長慶と手を結び幕政を壟断していた旧政所執事の伊勢貞孝が反乱を起こすも長慶の手で討たれた。さらに、永禄7年(1564年)には、長慶自身が病死したことをうけ政敵が消滅した義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。
しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であったため、久秀と三人衆は足利義稙の養子・足利義維と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。
永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こした(永禄の変)。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数斬り殺したという。しかし、衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された(フロイスの『日本史』にも奮戦の様子が記されているほか、『言継卿記』には自害したと記される)。享年30(満29歳没)。この時摂津晴門の嫡子摂津糸千代丸も一緒に討ち死にしている。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。
(出典:Wikipedia)