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- 『日本書紀』では「十二月 戊辰朔壬申 始行冠位 大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階 並以當色絁縫之 頂撮總如囊 而著縁焉 唯元日著髻華 髻華 此云 十二年春正月 戊戌朔 始賜冠位於諸臣 各有差」と記述されている。
- 『上宮聖徳法王帝説』では、「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」とある。なお□□は欠字。
- 『隋書』卷81 列傳第46 東夷 俀國では、(俀王多利思北孤は「」。なお『新唐書』では「」とある)、「」とあり隋にも知られていた。
『日本書紀』の記述には主語はないが、『上宮聖徳法王帝説』では聖徳太子と蘇我馬子が「共に天下の政を輔けて」と記されていることから、この二人の事蹟と考えられている。
豪族を序列化し、また氏や姓にとらわれることなく優秀な人材を登用することを目指した。また官位の任命を天皇が行うことにより、豪族に対する天皇の権威向上を図った。ただしこの制度は言わば移行期の制度<ref>大化の改新以前にともに冠位十二階における第二位の小徳であり、改新に功労があったとされている巨勢徳太と大伴馬飼が冠位十三階で与えられた位階はともに後世の従三位相当である小紫が授けられている。改新の功績の結果によって小紫に至ったと考えれば、小徳が後世の従四位程度の位階にしか相当しないと考えられ、大徳も後世の正四位程度であったと考えられている。ただし、大徳・小徳は律令制の位階では従三位以上にあたる公卿待遇を受けていたとする見方もある。</ref>であり、大臣や大連といった最上級の姓に属する豪族は依然として大徳よりも上位に置かれていた。また、現存している記録に残された冠位とその人物が属している姓の水準が一致している例が多い(臣・連以外の姓より大徳が輩出された例は無く、村主・首以下の姓で小徳を輩出した例は無い)点や遣隋使で活躍した小野妹子が大徳に昇進した例外を除いては冠位の昇進の記録がわずかであった事など、氏姓によって与えられる位階に一定の制約があったとする見方も存在する。
冠位十二階の制度は、第一回遣隋使を推古8年(600年)に派遣した時の教訓から編み出されたものであった。7世紀の東アジア情勢を考えると、倭国にとって隋との国交を開いておくことが是非必要であった。 冠位十二階制は高句麗・百済を通して北朝・南朝両方のものが伝わったとされている。
冠位十二階制は、日本で初めてつくられた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て律令位階制へ移行していった。