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大正15年(1926年)、東京府東京市本郷区曙町(現・東京都文京区本駒込)に生まれる。母方の祖父の家がある本郷で昭和20年(1945年)まで育つ。
東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)を経て、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に進む。附属中在学中に対米開戦。これにより英語が敵性語となること、敵性語として入試科目から除外されることを見越して英語を全く勉強せず、他の教科に力を入れて要領よく四修(飛び級)で旧制の官立東京高等学校(現・東京大学教養学部及び東京大学教育学部附属中等教育学校に継承)に入学。このため秀才と呼ばれたが戦後になってから英語力の不足を補うため今日泊亜蘭の個人授業を受け、さんざん苦しんだという。
高等学校在学中、満16歳の時に1年間の寮生活を経験。当時の寮生活について、後年「不愉快きわまることばかりで、いまでも眠る前に思い出し、頭がかっとなったりする」<ref>星新一『きまぐれ読書メモ』p.20(有楽出版社、昭和56年(1981年))</ref>、「入ってみてわかったことだが、この学校はとてつもなく軍事色が強く、教師だけならまだしも、生徒たちの多くもそのムードに迎合していたので、うんざりした。着るものはもちろん、食うものもだんだん不足してくるし、学校は全部が狂っているし、まったく、どうしようもない日常だった」<ref>『きまぐれ暦』p.225(新潮文庫、昭和54年(1979年))</ref>と回想した。
昭和23年(1948年)、東京大学農学部農芸化学科を卒業。高級官吏採用試験である高等文官試験(現在の国家公務員I種試験)に合格したが内定を取ることに失敗。なおかつ役人嫌いの父親に受験が発覚し、厳しく叱責された。東大の大学院に進学し、坂口謹一郎のもとで農芸化学を研究。昭和25年(1950年)に大学院の前期を終了する。卒業論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であった<ref>「星新一年表」『別冊新評 「星新一の世界」 76 AUTUMN』、新評社、昭和45年(1970年)、p202。</ref>。
昭和24年(1949年)、同人誌「リンデン月報」9月号にショートショート第1作『狐のためいき』を発表する。おそらく、星の初めての作品である。
昭和26年(1951年)、父の一が急逝したため同大学院を中退し、会社を継ぐも当時の星製薬は経営が悪化しており、経営は破綻。会社を他人に譲るまでその処理に追われたという。星製薬倒産の経緯は『人民は弱し 官吏は強し』にも少なからず触れられている。この過程で筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。のちに星自身は「この数年間のことは思い出したくもない。わたしの性格に閉鎖的なところがあるのは、そのためである」と語っている。会社を手放した直後、病床でレイ・ブラッドベリの『火星年代記』を読んで感銘を受ける。この出会いがなければSFの道には進まなかっただろうと回顧する。星は厳しい現実に嫌気が差し、空想的な空飛ぶ円盤に興味を持つようになる。たまたま近くにあった「空飛ぶ円盤研究会」に参加。この研究会は三島由紀夫、石原慎太郎が加わっていたことでも知られている。
星製薬退社後は作家デビューまでは浪人生活が続くが、自宅が残っていた上に星薬科大学の非常勤理事として当時の金額で毎月十万円が給付されており、生活に窮するようなことはなかった。
昭和32年(1957年)、「空飛ぶ円盤研究会」で知り合った柴野拓美らと日本初のSF同人誌「宇宙塵」を創刊。第2号に発表した『セキストラ』が当時江戸川乱歩の担当編集だった大下宇陀児に注目され<ref>ただし最相葉月は『星新一 一○○一話をつくった人』(新潮社、平成19年(2007年))のpp.208-217で「矢野からしきりに『セキストラ』を読むよう勧められた乱歩は、一読してこれは傑作だと思い『宝石』に掲載することを考えたが、自分が責任編集をしている雑誌に自分が推薦するのではどうも具合が悪い。そこで乱歩が大下宇陀児に『提灯もち』(『矢野徹・SFの翻訳』)を依頼し、九月末発行の十一月号でデビューさせることになった」「大下が推賞したのは事実であるとしても、大下が『発掘』したというのは宣伝用の惹句で、矢野が書き残している通り、乱歩から依頼された大下の『提灯もち』が、いつのまにか大下の『発掘』という定説になってしまった」と述べている。その根拠として当事者だった矢野の証言の他、肝心の大下本人の推賞文が短い一文しか存在しないこと、それに比して乱歩が『宝石』の『セキストラ』末尾に記したルーブリックは約800字と長く、作品の具体的内容にまで言及して絶賛していることなどを挙げている。</ref>、「宝石」に転載されてデビューした。
昭和33年(1958年)には、多岐川恭が創設した若手推理小説家の親睦団体「他殺クラブ」に、河野典生、樹下太郎、佐野洋、竹村直伸、水上勉、結城昌治と参加。
昭和35年(1960年)には「ヒッチコック・マガジン」に作品が載り、また「文春漫画読本」から注文がくる。
昭和36年(1961年)、医者の娘で小牧バレエ団のバレリーナだった村尾香代子と見合い結婚。髪が長いのが結婚を決意する決め手になったと後年語った。
昭和38年(1963年)、福島正実の主導による日本SF作家クラブの創設に参加。SF作家仲間たちと新宿の中華料理屋に集まり、SF的な雑談に興じたが、なかでも星の「異常な発想の毒舌発言」はその中でも群を抜いていて、他のSF作家たちの回想文等で神話的に語られている。その一部は『SF作家オモロ大放談』(いんなあとりっぷ社、1977年。のちに角川文庫に収録され『おもろ放談』(1981年)と改題)で読むことができる。平井和正は星の異常な発言をテーマにした「星新一のインナースペース」という短編小説を発表しており、作家仲間が集まると自然と星を中心に話題が広がっていたことが描写されている。
同年、日本SF作家クラブの一員として、ウルトラシリーズ第1作『ウルトラQ』の企画会議に加わる。会議に同席した『変身』、『悪魔ッ子』の脚本担当者・北澤杏子の証言によると、この場においては後に伝説となるような飛躍した発想の発言は聞かれなかったとのことである。また、この年に福島正実と二人で、特撮映画『マタンゴ』の原案にクレジットされているが、実際はまったくタッチしていない。
以降、40代~50代ながら、SF界では「巨匠・長老」として遇されることになる。昭和51年(1976年)~昭和52年(1977年)には「日本SF作家倶楽部」の初代会長。
なお、SFファンが選ぶ年間ベスト賞である星雲賞を星は一度も授賞していない。通常の小説部門が「長編部門」と「短編部門」しかないとはいえあまりの低評価であり、筒井康隆(ちなみに、筒井は小松左京とならぶ、7回の最多受賞者である)は自身の編纂する『日本SFベスト集成』の解説で、それを嘆いている。(さらに、手塚治虫、矢野徹、米澤嘉博、野田昌宏は死去した際に「星雲賞・特別部門」を受賞したが、「半引退状態」であったせいか、星は死去しても授賞されなかった。)
昭和54年(1979年)、「星新一ショートショート・コンクール」の選考開始。
昭和55年(1980年)、日本推理作家協会賞の選考委員を務める。昭和56年(1981年)まで。
昭和58年(1983年)、この年の秋に「ショート・ショート1001編」を達成。ただし、それまで関係が深かった各雑誌に一斉にショート・ショートを発表したため「1001編目」の作品はない。
それ以降は著述活動が極端に減ったが、過去の作品が文庫で再版されるつど「現代にそぐわない記述」を延々と、改訂し続けていた。
平成9年(1997年)12月30日18時23分、東京都の病院で間質性肺炎のために死去、。
平成19年(2007年)、死後10年目に星が残していた大量のメモ類と、関係者への大量のインタビューによる最相葉月の大部の評伝『星新一 一〇〇一話をつくった人』(新潮社)が刊行され、「ひょうひょうとした性格」と思われていた星の人間的な苦悩や「子供向け作家」と扱われていることへの不満、家族との確執、筒井など後輩作家への嫉妬などが赤裸々に描かれ、従来の「星新一」像を覆す内容で衝撃を与えた。また、この書では初期には直木賞落選が名誉と受け止められるほどハイブロウな存在として遇され、安部公房のライバル心をかきたてるほどであったが、のち大衆に広く受け入れられるに従って文学的評価のほうがともなわなくなってきた変遷も描き出されている。