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4.日本における貨幣の歴史
4.3.近世

皇朝十二銭が発行中止になってから、長い間日本では公鋳貨幣は作られていなかった。皇朝十二銭のあと、貨幣制度に基づいて初めて作られた貨幣は、戦国時代1567年永禄10年)ころ武田信玄の命によって作られた甲州金である。しかし、これは武田信玄の勢力下のみで通用した言わば地方貨である。続いて豊臣秀吉が製造を命じた金貨や銀貨も通貨としての性格は薄かった。

江戸時代になると貨幣制度が統一され、江戸幕府が貨幣発行益を独占して金貨(小判一分判)・銀貨(丁銀豆板銀)・銅貨(銭貨)の三貨の鋳造を命じ、全国通用の正貨とした。まず慶長の幣制による金貨・銀貨の鋳造が行われ、続いて1606年慶長通寳の発行と皇朝十二銭以来600年ぶりの銅銭の公鋳が始められた。2年後には永樂通寳の流通を禁ずる法令が出されたものの(実態は永勘定(1貫文=金1)による優位性を廃止)、本格的な通貨鋳造及び全国的な流通に至るのは1636年寛永13年)に発行された寛永通寳以後の事である(貨幣を発行した場所をそれぞれ金座銀座銭座と呼んだ)。金貨・銭貨は計数貨幣(額面価値と枚数で価値を決める貨幣)であったが、18世紀半ばまで銀貨は丁銀、豆板銀といった秤量貨幣目方で価値を決める貨幣)であった。1765年以降、計数貨幣としての銀貨と併用されることとなり、19世紀初頭の文政年間に入ると分、を通貨単位とする計数銀貨が秤量銀貨を凌駕するようになった。

江戸では金貨が流通する「金遣い(きんづかい)」であったのに対して、上方(大坂)では主として銀貨が流通する「銀遣い(ぎんづかい)」であった。江戸と上方を中心とする交易上の理由と、金貨・銭貨(計数貨幣)と銀貨(秤量貨幣)の特徴の違いから、日常的に三貨の間で両替商による両替が必要であった。御定相場として金1=銀50=永1貫文=鐚4貫文(4,000)(1609年制定、1700年には金1両=銀60匁=銭4貫文に改定)と定められたが、実際には変動相場制で取引され高度な経済活動が行われていた。後に幕府は南鐐二朱銀を発行して金銀の換算率の統一を図って一定の成果を収めた。幕府貨幣の三貨の他にも貨幣として流通し、大名領国では藩札と呼ばれる紙幣も発行されていた(一部には銅銭・鉄銭などの銭貨形式で発行されたものもある)。更に多額の金銭の輸送のリスクを避けるために為替のシステムが発達する事になる。

だが、経済の拡大に伴い通貨の流通不足と幕府財政の悪化が深刻化した。このため江戸幕府では度々金銀貨の改鋳が行われた。元禄宝永(小判1回、丁銀4回<ref>最後の改鋳は正徳元年であるが宝永期の一連の改鋳の性格を持つ</ref>)・正徳享保(小判のみ<ref>丁銀についても小判と伴に若干品位の変動があったとする説もある 丹野昌弘 『月刊 収集 いわゆる正徳丁銀について』 1999年9月号</ref>)・元文明和五匁銀南鐐二朱判)・文政天保嘉永一朱銀のみ)・安政万延(小判のみ)の計14回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には小判9回、丁銀10回となる)にもわたる改鋳が行われた。このため、江戸幕府最初の金貨である慶長小判の時には現在の単位に換算して量目約17.8g・金含有率84.3%あったものが、最後の万延小判に至っては量目約3.3g・金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下している。幕末には開国によって大量の金貨が流出したために万延の改鋳で金貨の引下げを行ったが、実際には大量に発行された、より金含有量の劣る万延二分判が流通を制し、この二分判にも諸藩による贋造が横行し、さらに幾種もの貨幣が並列して流通し非常に複雑な流通実態となったことから、諸外国の反発を買い、改税約書によって江戸幕府はこれ以上の改鋳をしないこと、将来的な通貨改革、金銀地金持込により本位貨幣を製造発行する自由造幣局の設立を約束させられ、これを継承した明治政府高輪談判の結果、通貨の近代化に踏み切ることになった。

(出典:Wikipedia)

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