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1.歴史

島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名戦国大名であり、1587年(天正15年)に豊臣秀吉九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた<ref>ただしこの時点では薩摩:島津義久、大隅;島津義弘、日向諸県郡島津久保と分割して宛われた。参考文献『島津義弘の賭け』山本博文など</ref>。

豊臣秀吉の文禄・慶長の役の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育といわれている。この郷中教育は、幕末の下級武士の台頭に大きな役割を果たしたと考えられている。

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・家久が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である<ref>参考文献 『鹿児島県の歴史』「苦悩する藩政」山川出版社</ref>。

1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美諸島は琉球と分離され、薩摩藩が直接支配した。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。その他加増を受けて従来の56万石から72万石の大藩となる(その後石高の高直しなどにより、表高は77万石となる)。

旧来の支配者から転封を経ずに近世大名に移行した薩摩藩は、旧来の支配体制を残し、外城制(武士を鹿児島城下に集住させず、領内に分散した外城と呼ばれる拠点に居住させる。天明4年(1784年)呼称をと改める)や門割(かどわり、農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる)などの独特の制度を持った。

しかし、多くの郷士を抱え士分の者が全人口の40パーセント(日本国内の士分平均0.5パーセント)を占める上、藩内の土壌の多くが水持ちの悪いシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった。かつ台風火山噴火などの災害を受け易い立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していた。

さらに、徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられ、特に1753年宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、藩財政は危殆に瀕した。工事を指揮した薩摩藩家老平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。

第8代藩主・島津重豪は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、1773年安永2年)に、藩校造士館演武館の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立。『成形図説・百巻』(農業書)など各種図書の編纂事業も行った。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍徳川家斉に嫁がせた(ちなみに外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけである)。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増した。

その後1827年文政10年)、調所広郷を中心に藩政改革が断行され、藩債整理、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転した。1851年嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館事業)、また、養女の篤姫を第13代将軍徳川家定の正継室にするなど、幕末の雄として抬頭した。

斉彬の死後、藩主・島津忠義の実父である斉彬の弟・久光が実権を握り、「国父」・「副城公」と呼ばれた。公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論尊王攘夷を主張、その後長州藩薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。

琉球諸島を除く薩摩藩領は、1871年明治4年)の廃藩置県を経て鹿児島県となる。

島津家は、1884年(明治17年)の華族令により公爵となった。

(出典:Wikipedia)

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