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YS-11-生産終了について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.歴史
1.11.生産終了

安定的な販売網の構築を待たずに売上は伸びなくなった。特に海外販売では競合国並の長期繰り延べ低金利払で対抗せざるを得なくなったことや第二次世界大戦後の日本では初めて作った機体のため、実績不足から足元を見られて、原価を割った値引き販売を余儀なくされることも珍しくなかった。また、宣伝費などの販売、営業関連費を初期コストの中に換算していなかったなど、原価管理も杜撰であったと言われている。加えて、航空機製造各社の寄せ集め所帯であったことで責任の所在が曖昧となり、納入部品価格の引き下げもままならず、官僚の天下りが増加したことで社内に公務員気質が蔓延し始め、抜本的な経営改革が行われず赤字を加速させて行った。特に海外での営業活動の赤字が当時予期せぬ変動相場制の移行で為替差損が発生した以外にも、会計検査院で指摘された米国での営業活動に日航製造の問題が内因している。後述するYS-11Aの改造で米国国内の販売代理店を希望したノースカロライナ州に本社がある中古航空機や航空部品の販売ディラーであるシャーロット・エアクラフト社のコードウェル社長が積極的な営業参加の意思表示を示し、同社と北米・中南米・スペイン地区の独占代理店契約を結んだ。しかし、同社は実質的な営業活動を行わず、三井物産と日航製造の営業活動でピードモント航空と売却契約が締結されると、シャーロット・エアクラフト社は地区独占代理店契約を盾に多額の手数料を要求し、ピードモント航空やクルゼイロ航空からYS-11の販売で下取りした33機の中古機をシャーロット・エアクラフト社に渡すなど、会計検査院から不当な取引と指摘された。国会で問題になり、日航製造の専務が引責辞任する事態となった。日航製造は旅客機の販売の実績もなかったことで、シャーロット・エアクラフト社に対しての信用調査や、業務の内容や、販売しなかった場合のペナルティの取り決めなどもない杜撰な契約内容だったからである。シャーロット・エアクラフト社の地区独占代理店契約解除に2億3,000万円の支出や下取り機を渡さなければならない失態を演じた。他にも、航空会社の経営者からリベートを要求されたり、支払いの延べ払いには大蔵省や通産省の了解が必要となり、了解が得られなかったことで契約に至らなかった例が少なからずあったと言われる。加えて、プロダクト・サポートも十分でなく、インドネシアのブラーク航空との間では補給部品の供給が出来ず、欠航が相次いだことから航空会社の信用を失墜させてしまい、リース料の支払いを拒否され訴訟になるなど、日航製造の特殊法人としての甘さが指摘されていた。また、輸出先の航空会社は遠隔地が多く、遠隔地の輸出先の航空会社からしばしば日航製造の負担で部品の預託や部品の販売センターの設置が要求されていたが、その要求を受け容れることはなかった<ref name="air_liner_club" />。

日本航空機製造の経営赤字は1966年(昭和41年)の航空機工業審議会の答申で既に提言されていた。1970年昭和45年)3月末で80億円の赤字、1971年昭和46年)3月末で145億円の赤字となっていた。この赤字は1970年から1971年にかけて国会で野党から追究される材料にもなった。このため航空機工業審議会では銀行代表団による経営改善専門委員会が設けられ、赤字の要因と今後の対策が検討された。

経営改善専門委員会は1971年4月27日に、同じ航空工業審議会の政策委員会に改善策の最終案を報告した。その内容は、

YS-11はその段階で認可されていた180機で製造を打ち切り
1972(昭和47年)年度末の時点で一切の累積赤字を解消する
1973年(昭和48年)度以降の日本航空機製造はYS-11に関しては売却した機体の売掛金回収と、補修部品の供給などに専念する

とされた。

この報告を基に政策委員会は同年7月31日に次世代旅客機「YX」計画の進め方とYS-11の処理方針の答申案を決定し、9月27日に通産大臣に答申した。赤字の見通しについて量産180機とその後の10年間のアフターサービスで360億円の赤字が発生すると計算された。赤字の内容は、1.売上の減少(早期の生産打ち切りの公表による買い叩きと競合機との価格競争で販売価格の値引きによるもの)で31億円、2.補用品の売上が予想を下回ったことで40億円、3.販売費の増加で31億円、4.金利負担増により94億円、5.為替差損で153億円、6.原価上昇で11億円とされた。これは一機当たりの機体価格3億5,000万円では2億円の赤字を計上する計算となった<ref name="nakamura"/>。その上で答申は、赤字360億円については、日航製造の資本金78億円の取り崩し、政府負担金245億7,700万円、航空機製造各社の負担金36億2300万円で処理されることとなった<ref name="nakamura"/>。赤字の負担をめぐっては、政府の全額負担か、メーカー側にも応分の負担を求めるかで議論があったが、最終的にはメーカーも負担する形になった。

この時点でYSの民需は145機、競合機ホーカー・シドレー HS748は118機で、YS-11はフレンドシップに次ぐ売り上げであった。YSは総数182機を生産し、昭和47年度末(1973年(昭和48年)3月)に生産終了となり、技術を伝える後継機となるYS33の開発計画が進まないまま、日本航空機製造は1981年12月28日の閣議で、業務の民間への移管と1982年(昭和57年)度中の解散が正式決定された。これに従い、1982年(昭和57年)8月1日に営業権を三菱重工に譲渡し、1983年昭和58年)3月23日に日本航空機製造は解散した。欧米の競合機は生産が続いた。その後のアフターサービスは三菱重工業が請け負っている。

特殊法人である杜撰な経営と次期開発機が組織の経営能力を超えたジェット旅客機の開発を進めようとしていた技術偏重の体質など、民間旅客機メーカーの体を成していなかったことで日本航空機製造の赤字体質脱却は不可能であり、これ以上の税金の投入は無駄であるとみなされても仕方がなかった。他に、国内航空機メーカー各社が航空機設計の基礎技術を確立し、蓄積したことで、日本航空機製造の設立当初の目的を達した判断もあった。安全性、快適性、経済性を求める民間旅客機と経済性や快適性を無視して限界性能や耐久性を重視する軍用機では素性が相反するものであり、設計・生産方式が全く違うものであるからである。航空機であっても、旅客機と軍用機は似て非なるものであった。軍用機を基に設計されたYS-11の素性では旅客機としての機能が時代の進展と共に外部環境は変化し、期待した市場では受け容れ難く、現状のままでは今後の販売増加は見込まれないこともあった。日本航空機製造の解散を提言したのは当時の通産省重工業局長であった赤澤璋一である。赤澤は輸送機設計研究協会設立に奔走した当時の通産省重工業局航空機武器課課長でもあり、自らYS-11の誕生と幕引きを行ったことになった。<ref name="nakamura"/><ref name="maema-a">前間孝則『YS-11 - 上 国産旅客機を創った男たち』 講談社・α文庫 1999年 ISBN 4-06-256316-9</ref><ref name="maema-b">前間孝則『YS-11 - 下 苦難の初飛行と名機の運命』 講談社・α文庫 1999年 ISBN 4-06-256320-7</ref><ref name="maema-c">前間孝則『日本はなぜ旅客機を作れないのか』 草思社 2002年 ISBN 4-7942-1165-1</ref><ref name="maema-d">前間孝則『国産旅客機が世界の空を飛ぶ日』 講談社 2003年 ISBN 4-06-212040-2</ref><ref name="air_liner_club" /><ref name="sugiura">杉浦 一機『ものがたり日本の航空技術』平凡社 2003年 ISBN 4-582-85207-6 (ISBN-13 978-4-582-85207-3)</ref>

戦後日本の民間航空機工業の振興は通産省の主導だけで、競合国と比較して航空機産業に対する国家の助成や制度が不備であったことである。旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートに長期的な戦略た立てられず生産中止に追い込まれた結果となった。旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・プロダクトサポートには長期的な粘り強い戦略が必要だったことである。旅客機は軍用機と違い、企画・設計・生産以上に販売体制の構築に時間と費用が嵩むものであった。特に、採算性が悪い近距離線を運航する航空会社で収益を得るには、開発費を抑えた価格の安い機体を求め、そのために性能面で高い要求を出さず、機体構造や機能部品などの新しい性能の優れた機体よりも既に開発・改良し尽くされて故障が少なく、耐用期間が長い、補修部品の入手も容易な信頼性の高い航空機を購入し、稼働率を高めて経費の節減を図っている。YS-11が短距離路線で企画・設計された以上、対象とするユーザーである近距離路線を運航する航空会社に対して、その部品供給サービスを怠り、後継機種を技術偏重に向かった高い性能を指向した近距離のジェット旅客機の開発へ向かおうとしていたことは、資金難で経営不安説も流れた日航機製造がするべきことではなかった。日航機製造がするべきことは機体のコストダウンや批判されていた操縦面での改良、更なる経済性や快適性の向上であり、加えて補修部品の供給体制を含めた販売網の構築であったのである。それは航空機開発技術力の向上を求めた通産省や機体製造に関わった航空機メーカー各社の望むものではなかったのである。

日本航空機製造が解散したことで、旅客機の設計、製造だけでなく、販売・金融・プロダクト・サポートなどのアフターサービスのノウハウの次世代へ継承が行われず、その後の旅客機の設計・製造・販売能力を自ら放棄してしまったことになったが、今後の民間旅客機の企画・設計・生産・販売における教訓は残した。<ref name="maema-a" /><ref name="maema-b" /><ref name="maema-c" /><ref name="maema-d" /><ref name="sugiura" />

(出典:Wikipedia)

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