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強度試験機01号機(静荷重試験用)・02号機(疲労試験用)は1962年(昭和37年)7月から試験が開始された。1965年(昭和40年)4月までに、世界でも例のない20万回を越える疲労試験が行われ、胴体は22万5000時間のうち9万時間まで、主翼は18万9000時間のうち6万4000時間まで全く無傷であり、その後のひび割れも伸びが遅かった。一般の旅客機の強度は2倍から4倍に設定され、合理的かつ効率的に設計・製造が行われる(バリューエンジニアリング)が、耐用3万時間を目標としたYS-11は、そのような合理的設計とは無縁であった。そのうえ実際の強度は目標よりもはるかに強度が高く主翼は75~95年分、胴体は90~110年分飛行したとしても大丈夫<ref>山村尭「YS11の悲劇」日本評論社、83頁</ref>という予想を上回る設計強度を持っていた(戦前日本が開発した民間輸送機は実質的には1936年(昭和9年)の中島AT-2が最後で、YS-11クラスの機体の経済的強度の目安というものが良くわからなかったこともある)。後に「過剰強度」という批判もあったが、一方では寿命の長い航空機として評価された。
飛行試作機1号機(1001)は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした。1ヶ月に渡る電子機能検査、平衡試験、燃料試験、プロペラ機能検査、超短波(VHF)検査を経て、8月14日にエンジンに初点火し、8月25日からは滑走路での地上試験、ブレーキテストを行った。8月30日、日航製造は200人以上のマスコミを招き、実況中継放送が行われる中、1号機は初飛行した。「YS-11 PROP-JET」と描かれた機体には、テストパイロットとして正操縦士に飛行整備部飛行課長の近藤計三、副操縦士に長谷川栄三が搭乗、名古屋飛行場から伊勢湾上空を56分間飛行し、各種試験およびマスコミへのデモンストレーションは成功裏に終了した。10月には全日本空輸との間で20機の予備契約が調印され、量産を開始した。しかし、全日空は後述する試作段階での三舵問題等の諸問題の発生から、正式な購入契約が交わされたのは2年後の1964年(昭和39年)であった。全日空では第一次受領分は3機とし、開発の遅れや日航製造の改善要求の対応のまずさから不信感を増し、生産ラインが安定する10機目以降とするとの要求に加えて、一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保する条件とした。日本国内航空や東亜航空も全日空と同様に、初期の導入機体は一定の運航実績を積むまでは契約価格の一割の支払いを留保するとの条件出していた。また、日本航空も初期の開発段階の1963年(昭和38年)に5機の仮発注を行っていたが、国際線主体の日本航空では自社路線の適性となる路線が少ないことから本契約に至ることはなかった。国家プロジェクトにナショナル・フラッグ・キャリアとして協力する姿勢を表明するアドバルーン的意味合いが強かったと言われている<ref name="air_liner_club" />。