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1957年(昭和32年)に日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、1956年(昭和31年)に通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出された。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で、8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の大臣交渉で予算を獲得することができた。鉱工業技術研究補助金の名目で3500万円の予算を獲得した<ref name="air_liner_club">エアーライナークラブ編『YS-11物語』JTBキャンブックス ISBN 4-533-06504-X C2026</ref>。
この年の1957年(昭和32年)5月に理事長に新三菱重工副社長の荘田康蔵氏を選任し、専任理事に木村秀政日本大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立されて、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業(現三菱重工業)、川崎航空機(現川崎重工業)、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカと住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気、三菱電機、東京航空計器製造所の部品メーカーであった。新型航空機の開発の大型プロジェクトを特定の企業一社に独占的に任せることは他社の反発を招くことを懸念した為である<ref name="air_liner_club">エアーライナークラブ編『YS-11物語』JTBキャンブックス ISBN 4-533-06504-X C2026</ref>。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機(隼)を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった、戦前の航空業界を支えた人物が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機を設計した木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
設計案として、日本の国内線需要を勘案して、1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、運輸省から国内の旅客機の残余寿命が3~4年の機体が多いので代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの主張から4年に短縮された<ref name="air_liner_club" />。
国産旅客機製造の理解と国からの予算獲得のため、1958年(昭和33年)12月11日に日本飛行機の杉田工場でモックアップを完成披露した。試作機の予算を獲得するためのデモンストレーションであり技術的な検討を目的とするものではなかった。このため、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、横列5席の構成とし、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、西陣織の座席が設置された。この座席は当時の価格で一席50万円以上したと言われている<ref name="nakamura"/>。
そのときのキャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であった。これはYに横浜、Sに杉田、11に合わせて公開日を11日にしたジョークの一種であるが、これによって名前の由来を誤解させてしまうこととなった。このモックアップを作るのにかかった費用は5,500万円(当時)で、点滅ランプの機構が用意できなかったため、担当者が隠れてスイッチを入れたり切ったりしていた。