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1945年、日本は第二次世界大戦(太平洋戦争もしくは大東亜戦争とも呼称)に敗北したため、連合国の占領政策のもと従来の法制度を民主的に改革することが求められた。刑事政策関係では従来の刑事訴訟法が比較的厳格な法手続きを尊重する英米法に倣ったものに改正されたが、死刑制度自体は存続していた。この時期には戦後の混乱期の凶悪犯罪の増加という背景もあり、死刑の宣告及び執行は多かったが、従来の自白偏重主義の捜査方法が行われていたため、後年問題となった冤罪事件が数多く生じていた。
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法における死刑の憲法適合性については、1948年(昭和23年)3月12日の最高裁判決(最高裁昭和23年3月12日大法廷判決)においては合憲の判断(死刑制度合憲判決事件)がなされている。同年11月11日に日本国憲法下で初めて死刑が執行された。
日本国憲法施行後の1948年3月12日に最高裁判所は死刑制度の存在と憲法の規定は矛盾したものではなく是認しているとの判決を出し死刑は合憲であるとした(死刑制度合憲判決事件 <ref name="A">判決の要旨は以下の通り(最(大)判昭和23年(1948年)3月12日刑集2巻3号191頁)
- 事件
自分の母親と妹を殺害した罪で下級審において死刑判決を受けた被告人が、死刑は日本国憲法第36条によって禁じられている公務員による拷問や残虐刑の禁止に抵触しているとして上告。
- 判決
- 上告を棄却(死刑確定)
- 「死刑は合憲である」
- 「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…日本国憲法第13条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している」で始まる。
- 「死刑は残虐でない」としているが「ただ、死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有すると認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり・はりつけ・さらし首・釜茹でごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されるとするならば、その法律こそは、まさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである」に違反するものというべきである」として、残虐な執行方法については違憲としている。
</ref>)そのため、現在でも日本においては死刑制度存置の根拠のひとつとされている。なお、現在では殆どふれられることはないが「大野意見」という死刑制度に否定的な少数意見も付けられている。
また、戦後アメリカ軍によって日本から分離統治(1945年~1972年)されていた沖縄県では、日本の刑法が適用されていたため死刑制度(ただし東京の最高裁判所に上告できないため事実上二審制)があり、実際に死刑判決も出されているが、琉球列島高等弁務官に死刑の執行や恩赦の権限が与えられていたため、無期懲役に減刑した場合(泊母子殺人事件)もある。
死刑囚の恩赦であるが、現在ではまず行われないが、1952年のサンフランシスコ平和条約発効による恩赦では、殺人犯のみで死刑が確定していた者のうち13人が無期減刑されている。また個別恩赦で戦後11人が恩赦されているが、この中には戦時中に樺太で発生した強盗殺人事件の死刑囚のように、ソ連軍が樺太に侵攻したため裁判記録が事実上消滅し死刑起案書が作成できない為に減刑されたもの、少年法の改正(死刑にすることの出来る年齢が18歳以上に引き上げ)で犯行時17歳の死刑囚が無期減刑になった例がある。
戦後日本の国会で死刑廃止法案が提出されたのは1956年と1965年の2度あるが、いずれも成立することはなく現在に至っている。これは、この時期イギリスの国会で死刑制度の是非が議論されていた影響もある。1956年の際には「刑法の一部を改正する法案」として羽仁五郎参議院議員らが中心となって提出されたもので、現職の刑務官や所長らの現場から死刑廃止が根強く主張された。それによれば、自ら犯した犯罪に対する贖罪への感情が生じている死刑囚を業務のためとはいえ殺したくないというものであった。
読売新聞1956年4月13日付けの紙面には、当時の大阪拘置所所長で後に死刑廃止論者として有名になった玉井策郎によって、死刑の実態を告発する為に強盗の際に警察官を射殺した死刑囚の執行までの53時間を秘密録音した実況が一面で掲載された。それによれば、死刑囚の肉親との最期の面会、同囚との別れの茶会、そして死刑囚最期の言葉と辞世の句を残した後、死刑執行が行われた場面で終わるというものであった。なおこの時の録音はテレビ朝日の『ザ・スクープ』のなかで1996年に放送したほか、文化放送も2008年に特番『死刑執行』で放送されている。
を引き合いに出し『世の中には特殊な極悪人がおり、淘汰する以外にない犯罪者がいるのだ』<ref>村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社125頁</ref>として、社会防衛上必要であるとする死刑制度存置の理由として矛先に挙げられた。結局、この法案は廃案になった。
次の1965年3月の時<ref>「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、311頁</ref>には、当時の日本社会党の参議院議員ら39名が提出した。この時期に提出されたのは西側欧州諸国で立法府による死刑廃止が検討されていたこともあるが、帝銀事件といった死刑囚の冤罪が疑われる事件が続出していたことが背景にある。また1968年4月に国会に連合国による占領時代に死刑判決を受けた未執行死刑囚を対象にした「死刑の確定判決を受けた者に対する再審の臨時特例に関する法律案」が提出された。この法案の主旨は前述のように冤罪の疑われた死刑囚に再審の途を彼らにその機会を与えるものであったが、この法案が成立することはなかった。ただし、何人かの死刑囚に対しては恩赦で無期懲役に減刑されたが、これは死刑廃止論の象徴となっていた戦後初めて死刑判決を受けていた女性死刑囚(子供を養うために僅かな金銭を強盗し放火殺人した事件、精神異常と結核が亢進し廃人状態だった)を恩赦する政治判断があったとの指摘もある<ref>佐久間哲、「死刑に処す-現代死刑囚ファイル-」、自由国民社、2005年</ref>。なお、死刑囚が無期懲役に減刑されたのは1975年6月(福岡事件の死刑囚1人)を最後に行われていない。
これら死刑制度廃止の動きに対して、法務省は総理府(現在の内閣府)が行った世論調査の結果、日本の国民世論が死刑制度存置論が多数であるとして、死刑制度を維持すべしであるとして現在に至るまで死刑制度を廃止すべきではないとの立場を取り続けている。
なお、1946年以降2007年3月までの死刑確定者(自殺・獄死・恩赦減刑を除く)は728人で、それまでに死刑に処せられた者は627人、この時点での未執行者は101人であった<ref>別冊宝島1419『死刑囚最後の1時間』宝島社 2007年</ref>。また2009年現在、女性被告人で死刑が確定したものは10人(恩赦減刑1人、獄死1人、執行3人)であり、日本において死刑が適用される凶悪犯はほぼ男性であるといえる。
1989年に国連で採択された死刑廃止条約(「国際人権規約」の「市民的及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書」)について、日本政府は反対し、現在でも批准を行っていない。一方、死刑廃止を求める運動が活発化しており、1994年には亀井静香議員などを中心とする超党派の議員連盟「死刑廃止を推進する議員連盟」も発足している。また、1989年11月から1993年3月までの3年4か月の間は死刑執行が行われなかった。
2000年代からは被害者及び被害者遺族の権利や心情を重視する考え方や、厳罰化による犯罪の抑止を求める考え方などが支持を集めている。日本において犯罪件数そのものは減少傾向にあるが、の17名以来の多さである。
2009年1月29日現在の確定死刑囚は95人、1993年4月の執行再開以降の執行数は79人となっている。