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明治時代になっても明治政府初期は江戸時代の立法を準用していたため、引き続き江戸時代の刑罰が実施されていた。1870年に暫定刑法である新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定した。この網領で刑法典の出版と頒布が初めて認められ、罪刑法定主義が一応担保された。1870年(明治3年)に新律綱領を定め、死刑を「斬罪」と「絞首」の2種類に限定し、また1880年(明治13年)には絞首1種類に限定した(ただし、陸軍刑法、海軍刑法など陸海軍軍法における銃殺刑が存在した)の改定律例では欧米の近代刑法の影響を受けて、刑罰を簡略化して残酷な刑を廃止した。フランス刑法典を基本に日本社会の特性を加味して1880年に制定された刑法(旧)は絞首のみに死刑執行方法が限定された。この刑法によって江戸時代と比較して死刑が適用される犯罪は大きく限定されることになった。また例外として大日本帝国の兵士に対して適用された陸海軍軍法(陸軍刑法および海軍刑法)は最高刑として銃殺刑による死刑が存在した。
近代日本において死刑制度廃止法案が帝国議会に提出されたのは1900年のことで、安藤亀太郎、高須賀穣、根本正らが共同提出した。これは当時欧州の死刑廃止論の影響を受けた小河滋二郎ら実務派が主張していたことが背景にあるが、大きな社会的潮流になることはなかった<ref>「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大辞典」、東京法経学院出版、2002年、312頁</ref>。
1908年には現行刑法が施行され、現在まで幾度かの改正が行われているが、基本的には現在と死刑が適用される犯罪は変わらない。しかしながら死刑適用犯罪として皇室に関する罪のうち、天皇及び皇族を殺害もしくは危害を加えようとする大逆罪は、生命を奪うまで至らず未遂(予備も含む)であっても死刑のみが適用されていた。そのため幸徳事件では24名が、虎ノ門事件と桜田門事件では1名ずつ(朴烈事件は死刑判決を受けたが恩赦された)が死刑になった。戦後になってGHQにより国民主権の理念に反するとの判断から廃止された。以上のことから、死刑の適用事件は日本においても他の近代諸国と同様に大幅に限定されるようになってきているといえる。