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平安時代には、嵯峨天皇が弘仁9年(818年)に死刑を停止する宣旨(弘仁格)を公布して死刑執行が停止された。死刑相当の罪に対しては一旦太政官や刑部省において死罪の判決が出されても、執行の権限を持つ天皇の名において流罪への減刑が適用され、災害や朝廷内の出来事ごとに恩赦が出されたために、判決が下された後に釈放されるケースも多かった(また、八虐のように連坐・除名・没官などが付随する場合には、これらの処分は厳格に適用されていた。また、流罪に減刑されて現地に送られた後は非常赦と呼ばれる特別な恩赦が出ない限りは赦免されなかったから、交通が未発達な当時においては死刑に匹敵する威嚇効果があった)。また薬子の変以降、中央での政争が武力によって解決されることはなくなった。
平安時代は、不殺生を説く仏教が特に重んぜられた時代であり、特に穢れ思想は貴族階級に浸透していた。また怨霊信仰によって、天変地異や疫病などの災いの原因を怨念や祟りと考えた時代でもあり、そのことからも死刑は避けられ、政争においても血が流されることはなかったのである。
近代欧州から現代の国連決議まで、すべての死刑廃止論は平時のみの死刑廃止であり、戦時にまで死刑廃止を貫徹したのは平安時代の珍しい特徴である。ただし、これは京の中央政界のみでの現象であり、承平天慶の乱など続発する地方の戦乱への対処では、追討対象者は殺害されることが普通であった。承平天慶の乱では、討ち取られた平将門と藤原純友の首が京で晒し首となっている。また985年には盗賊の藤原斉明が検非違使によって近江で撃ち殺され、さらし首にされた記録がある。
平安末期には武士が台頭し、自力救済の思想が一般的となる。武士の時代の到来を告げた保元の乱の戦後処理として死刑が復活した。後白河天皇に源為義らを斬罪に処すよう提言した信西の言葉には「おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。(中略)若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん」(保元物語巻之二「為義最後の事」より)とあり、兵乱の防止を目的として死刑を復活させたことが記録されている。
保元の乱で処刑されたのは武士だけで、武家における私刑(源為義が源義朝に、平忠正が平清盛にそれぞれ預けられた)という形式がとられたが、平治の乱では貴族である藤原信頼が斬首となり、ついに中央政界における死刑が復活するのである。ただし、この信頼の処刑についても、「公卿」に対する処刑の復活という点では画期的だが、あくまでも武装しての「戦闘員」としての役割に対する死罪とする考え方もある(『保元・平治の乱を読みなおす』(元木泰雄))。後の平家一門や、承久の乱に連座したものたちについても同様のことが言え、戦乱時における「武士だけ」の処刑という伝統はその後も続いていた。
嵯峨天皇の宣旨から保元の乱の起こった保元元年(1156年)まで、347年の間、全国的に平時死刑は廃止され、京においては平時・戦時例外なく死刑執行は停止されていた。古代においてこれほど長期間死刑が行われなかった例は世界史上ほかに存在しない。