ランキングモンスター
連合国に降伏後の1945年(昭和20年)8月当時、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々などの旧日本領「外地」には軍人・軍属・民間人を合わせ660万の日本人(当時の日本の総人口の約9%)が取り残されていた。日本政府は外地の邦人受け入れのために準備をしたが、船舶や食糧、衣料品などが不足し用意することが困難だったため、連合軍(特にアメリカ軍)の援助を受けて進められた。しかし不十分な食糧事情による病気や、戦勝民の報復、当事国の方針によって引き揚げが難航した地域も多く、中国東北部(旧満州)では、やむを得ず幼児を中国人に託した親達も多かった(中国残留日本人)。ソ連領地では、捕虜がシベリアに抑留されて、過酷な労働に従事させられる問題も発生した(シベリア抑留)<ref>講談社出版『昭和の戦争7 引き揚げ ジャーナリストの証言』1986.3より</ref>。
軍役者の復員業務と軍隊解体後の残務処理を所管させるため、1945年11月に陸軍省・海軍省を改組した第一復員省、第二復員省が設置された。民間人の引揚げ業務については、厚生省が所管した<ref>後に第一、第二復員省は、復員庁となった後、厚生省所管の第一復員局、首相所管の第二復員局を経て共に引揚援護局に改組され、現在は一括して厚生労働省の所管となり、主に同省社会援護局が戦病者や戦没者遺族への年金、遺骨収集、中国残留邦人の帰国などを取り扱っている。</ref>。
政府は1945年9月28日にまず、舞鶴<ref>舞鶴は1949年(昭和25年)以降は唯一の引揚げ港となった。</ref>、横浜、浦賀、呉、仙崎、下関、門司、博多、佐世保、鹿児島を引揚げ港として指定した。10月7日に朝鮮半島釜山からの引揚げ第1船「雲仙丸(陸軍の復員軍人)」が舞鶴に入港したのをはじめに、その後は函館、名古屋、唐津、大竹、田辺などでも、引揚げ者の受け入れが行われた。
- 引揚げと復員者数<ref>出典:数値は厚生労働省社会援護局資料(平成16年1月1日現在)より</ref>
- 【注意】以下の数値は上陸地の港において引揚げ手続きを行った人のみを計上したもの